●なぜ「死」について考えなければならないのか
―― 皆さま、こんにちは。本日は橋爪大三郎先生に「死」についての講義をいただきたいと思っています。橋爪先生、どうぞよろしくお願いいたします。
橋爪 はい、よろしく。
―― 橋爪先生は、『死の講義』(ダイヤモンド社)という本を書いておられます。「死」について、いろいろな宗教がどう教えているかをまとめたものですね。
本日はこの本にそってお話をうかがえればと思います。誰もがいつかは、死を迎えるものですけれども、いざ考えるのはむずかしい。そもそも、なぜ「死」について考える必要があるのでしょうか。
橋爪 それは、誰でも死ぬからです。例外がない。身近なようだが、実は身近でもない。「死んだらどうなるのか」と考える人はみな、まだ死んでいません。まだ先だろうと思っているうちに、ある日急に死んでしまう。「死」のことなど考えないで、ずっと生きていける。死を経験した人はいない。この社会の人間はみんな生きていて、誰もまだ死んでいない。死んだ人に「死んだらどうでしたか」と聞くわけにはいかないんです。誰も「死」を経験していない。だから考えるのが難しい。これがひとつ。
●科学は「死ぬ」ことについて何も言ってくれない
―― 経験できないとなると、科学は「死」を研究できないのですか。
橋爪 はい。科学は知識の中で、いちばんしっかりした確実な知識だと、近代人は考えます。科学は、あやふやで疑わしいことは言わない。観察したり実験したりして、確実に確かめられたことだけを言います。科学は物理や化学など、いろいろな学問分野に分かれ、それがまた細かな専門に分かれて、確実な知識を積み上げられていく。
科学は今も発達中で、そのうち「死」のことがわかるかというと、わからない。なぜか。まず第一に、何かを確かめるには、科学者がいて、その科学者が生きていなければならない。
―― はい。
橋爪 科学者も死にますが、科学の活動は、次の科学者にバトンタッチされます。物理学者も化学者も医学者も、どんどん若い学者が出て来て、前の世代のひとに置き換わっていくのに、誰もそのことには気づきません。科学者が死ぬとしても、その科学者の「死」を研究する科学はないのです。
他の誰かが死ぬところは観察できますが、それはひとごとであって、自分の「死」ではありません。
―― 「臨死体験」の研究というのがありますが。
橋爪 臨死体験とは、結局死ななかった話です。死の一歩手前、いや百歩手前で、生きている人間の幻です。死ぬことと、ほぼ関係ありません。
自分が死ぬということを考えてみます。死ぬ前には意識があるから、自分がいることを確認できる。死んでしまうと意識がないので、死んだということがわからない。死ぬ前と後を見渡して、どう違うかを科学的に考えようとしても、死んだ後には自分がいなくなってしまうので、これを実行できない。
死はそもそも経験できません。世の中のいろいろなことはたいてい経験できて、誰かの死も経験できますが、自分の死は経験できない。自分にとって一番大事なのは、「自分が死ぬ」ことですが、これを考えることが科学の方法ではできない。科学は、人間が死ぬとはどういうことか、何も言ってくれません。
●「死」についての考え方はさまざまである
―― 科学は死をとらえられない。でも世界のさまざまな宗教は、死ぬとはどういうことかをいろいろ考えてきています。それぞれの特徴について、お教えください。
橋爪 死ぬということを、自分の問題として受け取るためには、科学のやり方では無理。どうするかというと、祖父母が亡くなり、父親も母親も死に、他の人びとも死んでいるので、今度は自分の番かと思うわけです。そして、自分が死んだらどうなるのだろう、と誰かに話します。みなが自分の意見を言います。誰も正解は知りませんが、ガヤガヤと自分の考え方を言っているうちに、だんだん結論がひとつに落ち着いていくのです。
でもそれは、確実に確かめたことではない。こちらの村で落ち着いた結論と、あちらの村で落ち着いた結論は、違っていても当然です。だから、時代により、民族により、文化により、さまざまな死についての考え方があるのです。
調べてみると、たくさんの考え方があって、みんな違うことがわかります。どれが正しいかわからない。どれも真剣に議論した結果だから、どれも正しいと言ってもいいわけです。
そういう考えを土台にして、村よりももっと広い範囲で、自分たちはこう考えるようにしよう、と決めたのが宗教です。宗教は、村や町よりずっと広い範囲に拡がるものである。
―― 文明圏的なものですね。
橋爪 そうですね、文明ですね。ここまでにな...