●末法の時代に阿弥陀仏を紹介した釈迦仏
橋爪 いろいろな宗派によっていろいろな考え方がありますが、生き死にに関していえば、おおむね人間は輪廻すると考えます。その中で、日本人にとって大事な宗派は三つあります。浄土宗・浄土真宗がひとつ。禅宗がひとつ。それから、法華宗・日蓮宗がひとつです。
これらはどれも仏教の原則にのっとるのですが、仏教の原則にプラスアルファのことをいっています。そのため、結論としては生き死にの考え方が違ってくるのです。最後にここを説明したいと思います。
―― わかりました。よろしくお願いいたします。
橋爪 まず浄土宗です。日本では浄土真宗のほうが大きくなりましたが、同じ系統のものです。
根拠になるのは、「浄土三部経」という3つの経典で、どれも釈迦仏が極楽浄土の阿弥陀仏を紹介しています。末法の世に入り、これまでのように勉強したり修行したりしていたのでは、そもそも覚るのが無理になってくるのです。
―― ここでは、仏教の「末法」という考え方が面白いですね。これは、だんだん誰も覚れなくなるということなのですね。
橋爪 釈迦仏の教えが伝言ゲームのように、伝わっているうちに劣化するため、世の中がだんだん悪くなっていく。右肩下がりに悪くなっていくのです。それが末法です。末法になると、お釈迦様の教えをまともに修行して覚ることが難しくなる。今年(2022年)始まった「大学入学共通テスト」が難しいと大騒ぎになっていますが、あれが毎年難しくなって、そのうち誰も合格できなくなるような話です。
―― それはなかなかシビアな話ですね。
橋爪 そうすると、誰もが考えるのか、どこか裏口入学で試験を受けずに合格できる大学はないかと。
―― そうですね。もともとの方法では、誰も入れなくなるぐらい難しくなってしまうということですね。
橋爪 釈迦仏は、そういうこともお見通しなわけです。そこで、「末法になったら、私の友だちの阿弥陀君がいるから、彼のところに行きなさい。阿弥陀君は昔、修行の時代に願をかけて、「困った衆生の人びとをみんな救おう」と約束した。そうして極楽浄土を開き、「末法の時代なら、みんな極楽浄土にいらっしゃい」と招いてくれているのです。極楽浄土に着きさえすれば、誰でもビザなしで入国できるのです。
●念仏で極楽に行けることを証明した法然
橋爪 では、どうすれば極楽浄土に着けるのか。諸説ありますが、「行きたい」と手を挙げて、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、確実に行ける。絶対に行けるし、国境で追い返されたりしない。この通りには浄土経典に書いてありませんが、そう書いてあるのと同じだと証明したのが、法然という人です。
法然という人がそれを証明したので、日本は大騒ぎになります。今までの宗派は全部やめて、念仏しさえすればいい。念仏すれば極楽に行ける。極楽に行ってどんないいことがあるかというと、極楽浄土は予備校のようなものです。
―― そこは目的地ではなく、予備校なのですね。
橋爪 そうです。目的地ではない。予備校だから、阿弥陀仏の特別授業があります。至れり尽くせりなので、みんなうれしくなって勉強がはかどり、一発で合格してしまう。極楽で覚って仏になる。仏になると、それぞれのテーマパーク(仏国土)を与えられて皆バラバラになってしまうのですが、そのための中継点です。
―― なるほど。極楽が目的地ではないというのは興味深いところですね。
橋爪 極楽往生ですから、極楽で死んだ後にも輪廻して、またもう一回極楽に生まれるのです。娑婆世界の中をさまようことなく、極楽までワープして飛んでいく。そして、極楽でもう一回生まれると、今度はそこで覚れます。
●極楽往生が農民に与えた勇気と一向一揆
橋爪 あと、そこには特別な課外授業もあります。娑婆世界に親兄弟や苦しんでいる村人などの仲間がいて、ほっておけない。「彼らを救いたい」と思う人は、「成仏する前に、ボランティアとして娑婆世界に戻り、仲間を助けに行ってもいいですよ」と言われる。
―― なるほど。
橋爪 そこで、極楽への往生は「往相」で、娑婆世界に一時、戻ってくることを「還相」といいます。
ということで、念仏をすることで村人たちは団結します。念仏がないと、「なんでうちのコメを横取りするのだ」「おまえの親父がカネを貸してくれなかったからじゃないか」などともめたりするでしょう。
しかし、念仏すれば、みんなが極楽に行くことがもう決まっている。村人のなかには、極楽から戻ってきて成仏一歩手前という奇特な人間もいるかもしれない。みんながそういう自覚を持てば、「南無阿弥陀仏」と唱えながら、極楽浄土と同じ阿弥陀教コミュニティが農村にできる。これが一揆です。一向一揆とはこういうものです。
――...