●「オウンゴール」だった金利の引き下げ
そこで皆さんと一緒に、なぜこのような長期の凋落が起きたのか、その原因を考えてみたいと思います。
私なりに整理します。一つは、プラザ合意と半導体協定が相当なショックを日本に与えていることです。1960年代の後半から高度成長を加速させた日本経済を牽引した輸出産業は、アメリカマーケットを席巻しました。造船、機械、自動車、電子機器、ついには半導体までがアメリカを席巻したのです。それによって日米経済摩擦が起こり、炎上したわけです。
1985年にプラザ合意があったことを覚えておられると思います。これはアメリカから見ると、日本の為替レートは低すぎるから、政治圧力をかけて円安を円高にしようという狙いがあったのです。為替レートについて、政治が口を出すのはタブーなのですが、アメリカはベーカー財務長官がプラザ合意を仕掛けて、「日本円は安すぎる」と一言いうと世界のマーケットで円高になり、220円が150円になったのです。
プラザ合意で円高になったので、これを乗り切ろうとして、日本政府は大型財政支出をし、日銀が金利の大幅引き下げをやったのです。実は、これが行く先のない、とんでもない形式上の有効需要を生みました。バブルです。結局、日本経済に吸収する力がなかったので、大体の需要が土地と株に集中して、とんでもないバブルになったわけです。これは日本の政策当局の完全なミスだと思います。
私はこれを「サッカーのオウンゴールだ」と言っています。「日本は輸出立国で、それを中小企業が支えているので、円高になったら売れないし、大不況になる」と日本の政策当局は言ったのですが、実はそんなことはなく、中小企業は努力して、あとで輸出を増やしているのです。政府は完全に間違えた。意味のない名目需要を生んで、バブルになり、それがとんでもない地価と株価の高騰を生んだのです。
それがあまりにひどいので、圧縮しなければならなくなり、4年たって、三重野康日銀総裁(当時)による金利引き上げと、大蔵省(現・財務省)の総量規制を思い切ってやったものですから、日本の不動産産業は半分ほど潰れたのです。それによって大不況になってしまいました。これは日本の政策ミスです。
●致命傷を与えた日米半導体協定
それから日米半導体協定についてですが、日本の半導体は品質が良く価格も安いので、シリコンバレーを席巻してしまいました。アメリカは、国家の危機だとして大戦略でこの流れをストップさせければいけなかった。1986年に、レーガン大統領は半導体協定というものを日本と結びました。つまり、こういうことです。アメリカの半導体は立派なものだ。だから、当然日本でも3割から4割程度、アメリカの半導体が売れていなければならない。これが売れていないのは、日本が不公正な貿易慣行をやっているからである。ちょうど、トランプ元大統領の中国批判のようなものの、もっと恐ろしいことをやったわけです。
それでアメリカのGメンが日本に来て、よく見て、例えば、「1割5分しか売れていなければ、その差額は課徴金で払え」と言うのです。価格も日本の方が安いのは不当なことをやっているからだという理屈で、数千億円ずつ払わされたので、日本の企業はすっかり意気消沈したのです。
そのようなことがあり、価格や数量に政治的な規制をかけたのです。このあたりから、日本が得意とした産業政策は死語になり、それ以後、産業政策を唱えることはタブーになったのです。
池田首相の所得倍増計画は国家主導の経済戦略ですから、成長が加速に伴ったので、日本のことを観察している人たちから「Japan Inc」「日本株式会社」と忌むべきような批判をされたわけです。これで、もう産業政策や国家戦略という言葉は日本では使ってはいけないことになりました。
バブル崩壊後、バランスシート不況が起きたのです。なぜかというと、銀行が「投資のやり時だ」「土地を買え」とばかりに資金を強引に貸し付けたのですが、その後バブルが崩壊。その資産を担保にしてたくさんお金を借りたのですが、資産価値がもう10分の1ぐらいに落ちてしまったものですから、残ったのは莫大な借金です。当事者である経営者も、次の世代の経営者も、莫大な借金を減らすことだけを考え、投資、生産、雇用を縮小して、すっかり元気をなくしたのです。日本産業はしゃがみこんでしまいました。私なりの少しきつい表現をすれば、プラザ合意で腰骨を折られて、半導体協定で頭蓋骨を打ち割られたような感じで、立ち上がれなくなってしまったのです。
●追い討ちをかけた少子高齢化
そこに追い討ちがかかるように財政赤字が累積しました...