●一般的な「タカ派」のイメージとはまったく異なる国際主義者の顔
本日は福田赳夫についてお話をさせていただきたいと思います。
福田という政治家が一般的にどういうイメージを持たれているかというと、どちらかといえば、自民党の中でもナショナリストやタカ派の系譜の中で位置づけられる政治家です。あるいは、岸信介と政治行動をともにしたということから、岸と関連づけられて論じられることが多いかと思います。確かに、岸派の流れを汲む福田派(後の清和会)には、中国政策や安全保障問題などで非常に強い姿勢を取る政治家が多くいたことも事実です。
しかし近年、急速にさまざまな資料調査、研究が進んでくる中で、福田という人のイメージは少しずつ変わってきています。まずもって、福田の外交政策をめぐる言説から浮かび上がってくるのは、一般的な「タカ派」というイメージとはまったく異なる国際主義者のイメージなのです。
1972年、後に「角福戦争」といわれた、田中角栄と対決した自民党総裁選に福田が立候補した時、彼は「戦後の日本が経済的には大国になったが、軍事大国にならずに、経済力を通じて世界平和に貢献する平和大国を目指すのだ」という国家構想を示したのです。
そういう点を見てみると、やはり福田という人のイメージは少し修正されなければならないのではないでしょうか。本日は、福田の生涯というものを通じて、戦後政治の中で彼がどのような役割を果たしたのかと、もう1つ、福田という人を通じて戦後の政治、外交を見ることで、従来と異なった見方ができるのではないかということを、少しお示ししたいと思います。
●「白切符組」としてヨーロッパの「経済ナショナリズム」に直面
まず大蔵官僚としての福田の歩みから見ていきたいと思います。
福田が生まれたのは1905年、明治38年です。福田は群馬県に生まれて、第一高等学校、東京帝国大学を出て、1929年に大蔵省に入省しました。
当時の大蔵省は、入った時の成績のランクによって待遇が非常に異なっていたといわれています。一番待遇が良かったのは、通称「白切符組」と呼ばれたもの。入って半年や1年でヨーロッパに留学をするということで、まずは外国の勤務から始まるというものです。
福田はまさにその白切符組で、入省間もなくしてロンドンに赴任することになり、そこで約3年間、イギリスを中心に海外での経験を積むことになったのです。
福田が大蔵省時代に経験したことは、大きく4つあると思います。
1つ目はヨーロッパの経験です。福田が大蔵省に入った1929年は、ちょうどアメリカで世界恐慌が始まった年でした。世界経済が混乱する中で、各国は自由貿易体制からどんどん離脱していく。関税を引き上げていって、経済ナショナリズムが非常に高まっていく。福田のいたイギリスも例外ではなく、ブロック経済をつくって、どんどん囲い込みをやっていきました。
福田が20代にヨーロッパで見た世界情勢は、その後、世界経済がどんどん縮小していき、一方ではドイツやイタリアでファシズムが台頭していくという状況だったのです。つまり、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の戦間期といわれる時代のリベラルな国際秩序が崩壊していくのを、まさに現場で見た人物であったわけです。
これから、数十年後の1970年代になって、いわゆる西側の先進国の協調と結束が重要であるという時代が来た時、福田は自分が経験した1930年代の国際協調が崩壊していく模様をよく語って、それをサミットの場所でも語ったというのは記録にも残っている話です。
●陸軍との予算折衝で培われた政治的感覚と人脈
(さて大蔵省時代の)1つ目の経験は、ロンドンで国際協調体制が崩壊していく場面に立ち会ったということですが、2つ目に(の経験として)重要なのは、イギリスから帰国した後で、日本の陸軍の予算を担当する主計局の担当になったということです。
世界恐慌が日本に及んでくる中、満洲事変を機会に軍部が発言力を増していきます。福田は陸軍の予算を担当する一方で、当時の大蔵大臣だった高橋是清を補佐します。
高橋は軍部が「どんどん予算を増やせ」という圧力を強めてくる中で、必死にそれに抵抗していました。ところが、その高橋もやがては2.26事件で暗殺されてしまいます。結局は、その後、大蔵省は軍部の要求を全面的に受け入れてしまうようになるのです。
福田は、こういう大変な時代の中で陸軍と陸軍軍人との間で予算の折衝を行ないます。これは非常に厳しい仕事であるけれども、一方で非常に政治的な感覚も磨かれていく。予算の査定であるとか、どこを認めて、どこを落と...