●冷たい理性と熱い情熱の対比こそ『ハムレット』の本質
こんにちは。河合祥一郎です。第2回は、シェイクスピアの代表作『ハムレット』を取り上げましょう。
最近では2023年に野村萬斎さん演出・出演で、ご子息の野村裕基さんが主演なさった公演もあり、私も翻訳者として稽古場に参加させていただきました。そのほか、野村萬斎さんが主演のときの演出はジョナサン・ケント、藤原竜也さん主演のときは蜷川幸雄、岡田将生さん主演のときはサイモン・ゴドウィンといった名だたる演出家が私の翻訳で『ハムレット』を上演してくださいましたので、そのたびに稽古場でいろいろと学びながら、私の『ハムレット』理解は深まってきました。今日はそれをサクッと皆様にお伝えしましょう。
『ハムレット』というと、「憂鬱な悩める貴公子」といったイメージをお持ちの方が多いのではないでしょうか。しかし、そこには大きな誤解があります。誤解が生まれたのは、ロマン派の詩人たち・批評家たちが自分たちに引き付けて『ハムレット』を解釈し、誰でも思春期に人生に悩むようにハムレットも悩むのだと考え、その解釈が大きな影響力を持ったためです。
これまで『ハムレット』がどのように理解されてきたのか、その変遷をたどりつつ、真の作品理解を試みたのが私の本『謎解き「ハムレット」』です。ちくま学芸文庫の一冊となっていますので、ぜひお読みください。
さて、憂鬱なハムレットとして描かれた映画作品で有名なのはローレンス・オリヴィエ監督主演の『ハムレット』でしょう。いかにも憂鬱なプリンスとしてのハムレットとして演じられています。それに対して、アクションスターだったメル・ギブソンが主演した、ゼフィレッリ監督の『ハムレット』もあります。こちらはパッショネートで熱いハムレットだと言えるでしょう。
ここには哲学的瞑想に耽る冷静で憂鬱なハムレットと、復讐のために剣を振り下ろそうとする情熱的で熱いハムレットの対比があります。この冷たい理性と熱い情熱の対比こそが、『ハムレット』という作品の本質だということができます。
私は大修館シェイクスピア双書から『ハムレット』の原文の詳しい注釈と解説を出していますので、さらに詳しくお知りになりたい方はそちらをお読みいただいてもよいのですが、この本の中に掲げましたこちらの図がありますので、これを皆様にお示ししたいと思います。
3つの楕円があり、真ん中がシェイクスピアの活躍した時代で、そこで『ハムレット』が書かれ、その作品の最大のテーマは「私とは何か」ということになります。左側にあるのが中世、右側にあるのが近代で、『ハムレット』はこの2つのはざまに位置します。
左側の中世では、人は神と共に存在していました。まだキリスト教にプロテスタントは生まれておらず、カトリック教会の派手なステンドグラスや膨大な数の蠟燭やたくさんの像が示すように情熱的な、感性を重視する時代だったということができます。そのときの哲学者クザーヌスは、神が私をご覧になるから、私は存在すると述べており、人間の存在は神の光の中に在ることが認識されていました。
ところが、近代になりますと、デカルトが「コギト・エルゴ・スム」(われ思うゆえにわれあり)ということを言い出します。つまり、神様の存在は証明できないので、存在の基盤にはならない。では何が存在の基盤になるかというと、考えている私だというのです。それが近代的主体であり、この時代では、理性・理知が重んじられていきます。
そしてシェイクスピアの時代のルネサンスに宗教改革が起こり、教会に基盤を置いた情熱的なカトリックではなく、聖書に基盤をおく理知的なプロテスタントがイングランドという国を変えていきます。
しかし、シェイクスピアの父親は敬虔なカトリックの信者でしたし、国がプロテスタントに変わったからといって、人々の心もすぐそのように変わるものではありません。シェイクスピアは「ハムレット」という作品の中で、情熱と理性との間(はざま)で揺れる主人公を描いていきます。
●ハムレットが見たのは亡霊か、悪魔か
情熱と理性とのはざまで揺れるとはどういうことなのでしょうか。話の内容をおさらいしながら、考えていきましょう。こちらの相関図をご覧ください。
真ん中左にいるデンマーク王子ハムレットが主人公です。先王の子、新王の甥とありますが、先王とは左上の今は亡きハムレット王です。立派なデンマーク王だった...