●歴史学は凡人の領域だという誤解を嘆いたイブン・ハルドゥーン
私はその専門家ですから特に思うのですが、歴史という学問は、実は素晴らしい学問です。ところが、歴史学や歴史が、あたかも凡人の領域、あるいは、誰でもできると思われるのは、いささか口惜しいところがあります。
ただ、誤解しないでほしいのですが、これが口惜しいと言ったのは、私が最初ではなく、チュニジア生まれの歴史家、イブン・ハルドゥーンでした。
繰り返しになりますが、今の日本においては、特に、歴史という学問には、“誰でも参入できる”と思わせるところがあることは事実です。
●『エセー』におけるモンテーニュの辛辣な歴史揶揄
16世紀に活躍したフランスのエッセイスト、思想家であるモンテーニュという人物がいます。モンテーニュは『エセー』(随想録)の著者ですが、彼はその『エセー』の中で、歴史について、私たちにとって、ある意味では実に小面憎い、しかし、“なかなかいいところを突いているな”と思わせる名言をいくつか語っています。私は、大好きなのでモンテーニュをよく読みますが、いつも、“お主、なかなか言うな”というところと、“何を言っていやがる”というところが交錯するところがあります。
モンテーニュは、「語り口が上手であれば歴史家という仕事は誰でもつとまる面がある」と言っています。なかなか辛辣です。「つとまる」とは言わず、「つとまる面もある」と言っているのですね。
モンテーニュによれば、彼ら歴史家は、「たいていは、ふつうの人々のなかから選ばれてくる」人たちであり、「まるで歴史書で文法を習うみたいなもの」だと揶揄しているのです。
これは、誰でもでき、文法に沿って歴史を解釈していくような、それ自体平凡な学問であり、歴史家は平凡な人たちだと、モンテーニュは言いたいのでしょう。
それにしても、モンテーニュから、歴史家とは「美辞麗句をふんだんに使って、街角で集めてきたうわさを、みごとな織物に仕立てるといった具合」なのだと言われますと、モンテーニュが好きな私でさえ、少しモンテーニュをからかってみたい、あるいは、少し文句を言ってみたくなります。
●過去の正確な認識は不可能だと主張した現代主義の歴史家たち
しかし、これは後でまた触れますが、こういう見方はモンテーニュに限ったことではなく、「万人はそれぞれが歴史家である」と、歴史家である人たちが言う場合もあります。しかし、これは、ややポピュリズムめいた見方です。ずいぶんと大衆や市民に迎合している気がします。
そうすると、歴史家だけではなく、他ならぬ歴史の読者たちも悲しい思いがするのではないでしょうか。
1945年に亡くなったカール・ベッカーは、同時代のチャールズ・ビアードと並んで、アメリカを代表する現代主義(プレゼンティズム)の歴史家でした。
彼は歴史家の世界観を説明しようとします。その際、世界観は常に現代的でなければならず、現在、すなわち、現代(プレゼント)を強調しなければならないと考えました。そこで、歴史的な知識の客観性や科学性を排除しようとしました。
確かに、人によっていろいろと議論が分かれたり、論争が行われて、どれが正しいかを決着しきれないことがあります。ですから、過去の正確な認識はそもそも不可能なものであると、彼らは主張したのです。
彼らによると、歴史的事実はどの場合にも堅固で揺るぎなくそこに動かずにあるものではない、ということになります。
そうすると、「事実とは何なのか」ということになるのですが、これに関して、ビアードやベッカーたちの立場が、私にはどうもよく分からないところがあります。
結局、歴史の賛美、あるいは、批判は、それぞれ現代のある優勢な価値観から決まるかのような印象を与えるのですが、しかし、そうしたことを通していくと、歴史における実証的作業、つまり、史料を読み、史料によってできる限り「真実とは何か」ということに肉薄していく作業がむなしくなり、そして、歴史学という学問はそもそも必要ないのではないかという思いになり、そういう主張も出てくるかもしれないと、私は考えています。
●現代の歴史家が磨くべきは、洞察力と思考力
ところが、こうしたことに懐疑心を持っているのは私だけではありません。東京大学で同僚だった私の友人であり、今、早稲田大学で古代ローマ史を教えている本村凌二教授が、うまいことを言っています。
「卓越した思想家であれば、ひとことで片付けることができる。しかし、凡庸な歴史家は、数年をかけ万言を費やして、ある事実を証明する」
これは学問の違いだということです。「それが実証というものですよ」と本村教授は語ります。これはなかなか言い得て妙です。
しかし、本...