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さて、ここまで昭和7年(1932)の五・一五事件までの大きな動きを見てきたが、いよいよ事態は昭和11年(1936)の二・二六事件に流れ込んでいくことになる。この間の陸軍の派閥事情は複雑だから、ここで改めて、時計の針を宇垣一成陸相が誕生した時点に巻き戻して見ていくことにしよう。
前章で述べたように上原勇作元帥は、長州閥の田中義一大将と対立関係にあった。そこで、大正13年(1924)1月7日に清浦奎吾内閣(~6月11日)が成立した際、上原勇作元帥は、田中義一大将に代わる陸軍大臣として、清浦首相に福田雅太郎大将を薦めた。
上原元帥の派閥は、大分県以外の九州出身者が中心を占めていたが、福田大将も長崎出身で、関東大震災(大正12年9月1日)のときには関東戒厳司令官を務めている。
ところが、前任の陸軍大臣であった田中義一大将は、次の陸軍大臣に宇垣中将を推そうと考えていた。だが、上原元帥はかつて陸軍大臣、参謀総長、教育総監の「陸軍三長官」を務めた身(三長官を歴任したのは上原元帥の他には、のちの杉山元元帥のみ)であるだけに、その意向をそう簡単に退けるわけにはいかなかった。
そこで田中大将は非常にうまいことを考えた。前陸軍大臣である自分と参謀総長の河合操大将と教育総監の大庭二郎大将の三人で相談し、三長官の合議のうえで陸軍大臣を薦めることにしたらどうか、というのである。
河合大将は、清浦内閣で宇垣大将が陸相になったときも参謀総長の地位にあり、田中大将はもちろん宇垣中将を推していた。大庭大将はどちらでもいいという考えだったが、三長官による次期陸相の推薦ということになると誰も嫌な気はしない。結局、三人の会談では、次期陸相は宇垣中将ということにまとまり、上原元帥も引き下がらざるをえなかった。
ところが上原元帥は、昭和5年(1930)に鈴木荘六大将が参謀総長を辞めたとき、武藤信義大将(のち元帥)を後任に推薦した。佐賀出身の武藤大将は陸軍大学を首席で卒業した武勲赫々たる人で、皇道派の中心人物だった荒木貞夫中将や真崎甚三郎中将などが猛烈な推薦運動を展開している。
陸軍で偉くなる人は、必ず一度は参謀本部に入って参謀総長の下につくから、陸軍部内における参謀総長の影響力は非常に大きかった。だから上原元帥にしてみれば、そのポストを自分の派閥から離したくなかった。そ...
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概要・テキスト
真崎甚三郎
Wikimedia Commons
五・一五事件のあと、二・二六事件に流れ込んでいくまでの陸軍の複雑な派閥事情を、宇垣一成陸相が誕生した時点に巻き戻して見ていく。上智大学名誉教授・渡部昇一氏によるシリーズ「本当のことがわかる昭和史」第四章・第1回。
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