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こうした出来事が重なり、昭和11年(1936)2月26日、ついに二・二六事件が起きる。
二・二六事件は、「昭和維新」の実現を目指す陸軍の青年将校らが起こした大規模な叛乱事件で、叛乱には陸軍歩兵第一、第三連隊に加え、近衛歩兵第三連隊などから1400人あまりが動員された。近衛連隊は皇居を守るために設置された、まさに天皇陛下のお膝元の部隊である。
叛乱を指揮した青年将校たちは先の十一月事件で免官された村中孝次元大尉や磯部浅一元中尉をはじめ、野中四郎大尉、河野寿大尉、香田清貞大尉、安藤輝三大尉、中橋基明中尉、栗原安秀中尉などといった人々であった。
叛乱部隊の兵隊たちは、上官である青年将校から命令された通りに動いて永田町・三宅坂一帯を占拠し、斎藤実内大臣、高橋是清蔵相、渡辺錠太郎教育総監らを殺害した。大東亜戦争終戦時の内閣総理大臣だった鈴木貫太郎大将が当時、侍従長を務めていたが、彼も重傷を負っている。叛乱部隊は首相官邸にも押し入り、岡田啓介首相の義弟である松尾伝蔵大佐を岡田首相と誤って射殺した。岡田首相は女中部屋の押し入れの中に隠れて、奇跡的に難を逃れている。
これに対し、海軍の対応は早かった。横須賀鎮守府長官・米内光政中将(のち大将)と参謀長・井上成美少将(のち大将)のコンビは同日午後に軽巡洋艦那珂を芝浦に差し向け、特別陸戦隊を上陸させたほか、戦艦長門を旗艦とする第一艦隊約40隻を東京・台場沖に停泊させている。必要とあらば、艦砲射撃をやるぐらいの覚悟だった。
当初、陸軍の首脳部、幕僚陣の大多数は事件処理について右往左往の体たらくであった。これは、明治時代の陸軍とは大違いである。
九州の士族が西郷隆盛を擁して起こした西南戦争(明治10年〈1877〉)が終わったあと、恩賞がなかったことや経費削減による減給などを理由に、竹橋事件(明治11年〈1878〉)という、日本で初めての兵士による叛乱が起きている。
同事件では、当時陸軍卿だった山県有朋が兵卒259名を処罰し、うち53人を死刑にしている。明治維新の元勲たちは刃の下をくぐっているから、やるべきことは断固として実行したのだ。
ところが昭和の軍人たちは、叛乱部隊を鎮圧するために「皇軍相撃つことは避けなければならない」という心情が先に立つようになる。しかも陸軍内には、事件を利用して皇道派の勢力を拡大させようとする動きも生じるなど、さまざまな派閥の思惑も重なった。そもそも二・二六事件自体、青年将校だけの蹶起というより、はなから皇道派の上の世代層が嚙んでいたという見方もあるほどである。
事件当日の2月26日に最初の陸軍大臣告示が発表されたが、そこには「蹶起ノ趣旨ニ就テハ天聴ニ達セラレアリ」「諸子ノ真意ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム」「国体ノ真姿顕現ノ現況(弊風ヲモ含ム)ニ就テハ恐懼ニ堪ヘズ」というような、叛乱の首謀者たちにゴマをするような言葉も入っていた。戒厳司令官だった香椎浩平中将は皇道派なのである。
こうした陸軍の煮え切らない態度に激怒したのが、昭和天皇である。
昭和天皇には具体的に怒る理由もあった。叛乱部隊に撃たれて重傷を負った鈴木貫太郎侍従長の夫人が、幼少時の昭和天皇、秩父宮、高松宮の御用掛を務めていたのである。そのため昭和天皇にしてみれば、鈴木侍従長は自分のおじのような存在だったから、叛乱部隊が軍紀を破ったことに対する怒りはもちろん、自分の一番親しい人を傷つけられたことへの怒りもあったのである。
叛乱部隊ならびに陸軍首脳に対する昭和天皇の怒りは、ことのほか深かった。
後年、鈴木貫太郎内閣(昭和20年〈1945〉4月7日~8月17日)で書記官長を務めた迫水久常は、回想記の中でこう述べている。
〈そして遂に、陛下は、香椎戒厳司令官に対し、『もし戒厳司令部で鎮圧できぬなら、自分みずから叛乱軍を説得にでかけてもよい』と仰せられたということである。『叛乱』という言葉は、陛下が初めて仰せられたのであるということは、後年、私が鈴木終戦内閣の書記官長となったとき、何度も鈴木総理から伺った〉
(迫水久常『新版 機関銃下の首相官邸』〈恒文社〉)
こうした昭和天皇の激しい怒りに触れて、急に陸軍は正気に返り、叛乱部隊の鎮圧に向けて一気に動き出した。もともと天皇陛下を担いで昭和維新を断行しようと目論んでいた部隊の将校たちも、天皇陛下から叛乱軍といわれては、なすすべがない。こうして二・二六事件は春の淡雪のごとくに消え去り、粛軍が実行されたのだ。
軍法会議で主謀者の青年将校ら17名に死刑が宣告され、民間人の北一輝、元軍人の西田税も青年将校に思想的な影響を与えたとして死刑になっている。
なお同事件では、五・一五事件のときに見られたよう...


