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二・二六事件は日本の近代史に三つの影響を与えたと私は考えている。
一つは、天皇陛下も含めた日本の上流階級に、二・二六事件が下級軍人の叛乱であったことへの恐怖を強烈に植え付けた。
逆にいえば、元帥や大将、中将などの上層部が軍隊をまったく握っていないということがわかったのである。軍を実質的に握っているのは二十歳代の少尉や中尉で、せいぜい大尉クラスまで。彼らは小銃どころか機関銃も持っていて、朝から晩まで訓練に明け暮れている。そういう集団が、首相や閣僚、重臣たちを、首謀者の命令通りに殺害したのである。軍隊であるから、警察などまったく問題にならない。こうした事態に対する恐怖心が、日本が大東亜戦争に敗れるまで、日本の上流階級の骨の髄にまで染み込み、やがて日本全体を覆っていったと私は思う。
広田首相が、寺内陸相から陸海軍大臣を現役から選ぶよう要求されたとき、毅然とした態度を取ることができなかったのは、二・二六事件が下から起こった叛乱であり、それを恐れたからということもあったかもしれない。
二つ目として、金輸出を禁止し、積極的な金融緩和政策と財政政策を実施して、日本経済を深刻な不況から脱却させた高橋是清が殺されたのも大きかった。
日本が経済不況から脱するのに、高橋是清の手腕はきわめて大きなものだった。昭和2年(1927)の金融恐慌を収めたのも彼である。そして、世界恐慌と井上準之助蔵相の金解禁政策のせいで未曾有の不況に陥った日本経済を、昭和6年(1931)12月に蔵相となって立て直したのも高橋是清であった。「困ったときの高橋是清」とでもいうべきか、実に四度目の蔵相就任である。
実際のところをいえば、皇道派の青年将校らが蹶起などしなくても、髙橋是清の経済手腕で日本の農村も民衆も、まもなく救われようという矢先だったのである。
だが、日本のリーダー層はまだしも、下級士官や兵隊に経済政策・金融政策の機微などがわかるわけはない。彼らは、軍事予算を切ったという程度の話で「高橋是清はけしからん」と考えただけであった。高橋是清がどれだけ日露戦争の勝利に貢献したか、また彼の存在がどれだけ日本にとって重要な可能性を秘めているのかということが、二十歳代の青年将校たちには理解できなかったのである。
それにしても、当時「ダルマさん」と呼ばれて国民に親しまれた高橋是清を殺すというのは、どう考えても納得がいかない。もし高橋是清が青年将校に殺されなかったら、その後、日米戦開戦前夜の状況においても石油ルートの確保についても、道はあったと思う。高橋蔵相はユダヤ人とのパイプが太かったから、石油の問題さえなんとかなっていたら、日米戦争は避けられたはずである。
そのようなことを考えると、「高橋是清の殺害はコミンテルンの指示だったのではないか」という説にも、ついつい首肯したくなってくる。もちろん、確たる証拠がある話ではないが、青年将校の中にコミンテルンのシンパがいて、高橋是清とユダヤとの関係を潰しておくようにというコミンテルンの指示に従ったのだ、という説である。普通は、軍事費の増額要求を抑えたという理由だけで大蔵大臣を殺すはずがない。だが、「日本を危地に落としたい」という動機があったとすれば、実に納得ができる。それほど、高橋是清のような人物が殺されてしまったことは大きかった。
さらに三つ目は、二・二六事件が、シナ人に日本陸軍を軽視させる引き金になってしまったことである。
蔣介石はじめ多くのシナの軍人たちが日本陸軍で軍事教育を受けていたから、「日本人は非常に団結心が強く、兵隊は死を恐れない。だから恐ろしい」と思っていたはずだ。ところがその軍隊が東京の真ん中で叛乱を起こし、閣僚などを殺害する事件が起きた。もちろん、シナでも「日本軍の兵隊が叛乱を起こして首相や大臣たちを殺した」という程度の大雑把な報道が流れていたはずだし、シナの将官たちは動向を注視したことだろう。
シナでは現在もそうだが、文化的特性というべきか、ケンカをするときには平気で嘘でも何でもつくようなところがある。街場のケンカでもそうだというが、それが戦争になると悪辣ともいえるほどに宣伝に力を入れる。たとえば、あるところで軍事衝突が起こり、日本軍が手を打って引くと、向こうは「勝った」と大宣伝をする。そうすることで自分に箔をつけて、身をより安泰にするという軍閥的な発想があった。日清戦争以来、満洲事変も含めてシナ軍は日本軍にコテンパンにやられているから、日本が少しでも妥協すると、自分たちが本当は負けているのに「勝った」と宣伝していたのだ。
加えて、敵が弱ったときには情け無用で挑発し、「水に落ちた犬は打つ(打落水狗)」のが、かの国のお国柄である。だから二・二六事件が起きたこと...


