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このような状況を受けて、真崎大将を支持する村中孝次大尉や磯部浅一中尉などの皇道派青年将校らが、昭和9年(1934)11月20日にクーデター企図容疑で検挙された事件が十一月事件(陸軍士官学校事件)である。
この十一月事件の計画の中身は、二・二六事件(昭和11年〈1936〉2月26日)とほとんど同じようなものだった。暗殺の第一目標は、西園寺公望元老、岡田啓介首相、牧野伸顕内大臣、湯浅倉平宮内大臣、鈴木貫太郎侍従長、斎藤実前首相。第二目標は高橋是清蔵相、若槻礼次郎元首相、幣原喜重郎元外相、財部彪元海相、伊沢多喜男貴族院議員。伊沢議員は浜口雄幸元首相と親しく民政党内閣設立の立役者として働いたような人だった。
その少し前のことだが、東條少将は陸軍士官学校幹事を務めていて、のちにノモンハン事件などで有名になる辻政信大尉(のち大佐)を、自分の部下として陸軍士官学校生徒隊中隊長とした。
毀誉褒貶もあるが、辻大尉は兵隊の信頼が非常に厚かった。戦後に石川一区から出馬して衆議院議員になり、のちに参議院議員に当選した経験を持つ、陸軍将校としてはかなり例外的な人物である。当時、士官学校に、この辻中隊長を崇拝する佐藤勝郎という士官候補生(士官学校生徒)がいた。
佐藤候補生は辻大尉に、他中隊の候補生が青年将校とクーデター計画を立てていることを打ち明ける。辻大尉は佐藤候補生に、スパイとして計画の全貌を調べて報告するように命じた。佐藤候補生は村中大尉や磯部中尉らに加え、昭和維新のリーダー的存在だった西田税元少尉にも会い、歩兵第一、第三連隊、近衛歩兵第二、第三連隊からそれぞれ二個中隊、歩兵第十八連隊と戦車第二連隊からも若干の兵力が加わるというクーデターが計画されていることを辻大尉に報告した。
事の重大さに驚いた辻大尉は、その詳細を参謀本部第四課の片倉衷少佐、塚本誠憲兵大尉に話した。塚本大尉が持永浅治東京憲兵隊長に報告したものの、持永憲兵隊長は皇道派で「そういう話はしょっちゅう聞いている」と相手にしない。そこで塚本大尉は憲兵司令官の田代皖一郎中将とともに陸軍次官の橋本虎之助中将にクーデター計画の詳細を伝えた。
その結果、首謀者を捕らえるよう厳命があり、村中大尉、磯部中尉のほか、佐藤候補生以下五人の士官候補生が検挙されたのである。
未遂に終わったこのクーデター計画が、田代憲兵司令官から橋本陸軍次官を通じて林銑十郎陸軍大臣に報告される前に、本来はまったく関係がないはずの真崎大将や荒木大将に伝わっていたから、統帥が乱れていたのは明らかだった。
検挙された首謀者たちは第一師団の軍法会議で取り調べを受けた。ところが師団長の柳川平助中将はバリバリの皇道派で、「これは皇道派による犯罪ではない」などと法務官に言い聞かせたため、証拠不十分で不起訴となったが、士官は停職六カ月、候補生は退校という処分を受けた。
ところが停職処分になった村中大尉と磯部中尉が、獄中から辻大尉らを誣告罪で告訴した。また村中大尉と磯部中尉は「粛軍に関する意見書」と題するパンフレットで統制派を批判し、われわれが尊敬できる人物は荒木大将と真崎大将に加え、林大将だけで、松井石根大将や南次郎大将をはじめとする将官は全部駄目だとか、汚職をしていると誹謗した。林大将は当時の陸軍大臣だから、付け足しのようなものだったと思われる。
同パンフレットには、三月事件以来の陸軍の内幕と称する暴露話や中傷が数多く記されていたため、村中大尉と磯部中尉は免官された。二人が免官になったのちもパンフレットは陸軍内に出回り、それを読んだ皇道派の相沢三郎中佐が、永田軍務局長を斬殺することになる。


