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だが、日本で統制経済が本格化するのは昭和12年のシナ事変以降のことである。二・二六事件当時、普通の日本人は国際情勢の変化も切実には感じていなかった。よく、「戦前は暗黒の時代だった」などと言われるが、単純にそう決めつけるのは大きな間違いなのである。
それがよくわかるのが、当時、百万部も発行されていた、大日本雄辯會講談社(現・講談社)発行の国民大衆雑誌『キング』の記事である。どこを見ても、非常に呑気で危機感がまったく見られない。
私の自宅には、大正14年(1925)から敗戦までに発刊された『キング』が揃っているが、誌面を通じて当時の雰囲気がよくわかる。その『キング』でさえ、二・二六事件について触れているのは、同事件から約2カ月後の昭和11年5月1日号しかないのだ。
たしかに二・二六事件当時、心配のあまり明治神宮に参拝した女学生たちもいたが、クーデター自体は3日間で鎮圧されているので、当時の一般大衆にとっては一過性の事件としか映らなかったのかもしれない。
同号の『キング』のスナップ写真を見てみると、明治神宮に参拝している女学生たちや西園寺公の姿が掲載されている。事件当時、夫人たちが鎮圧部隊に炊き出しをしていたことも出ている。それから佐倉の連隊(歩兵第五十七連隊)が千葉から入ったとか、海軍陸戦隊が上陸したとか、首相官邸などで殉職した巡査たちに対する見舞金が、短期間に20万円も集まったというような写真が記事になっている。
当時の20万円といったら、非常に大きな金額だ。総務省統計局「戦前基準の物価指数(昭和30年~平成26年)」によれば、昭和9~11年の平均消費者物価(東京区部)を1とすると、2013年は1751倍だから、ざっと計算すると3億5千20万円が集まったことになる。
二・二六事件の翌月の3月9日に広田内閣が成立し、広田弘毅が総理大臣になったが、『キング』の同号に「広田弘毅氏、出世物語」という記事が出ていて、殉職した巡査や岡田首相をうまく脱出させた小坂慶助憲兵曹長、最後まで警視庁の電話を守った女性交換手たちの美談も紹介されている。
何か事件があったとき、死線を突破した人たちや現場の人たちの写真を出してストーリーを書いていたのが、『キング』の人気の理由で、その女性交換手たちも同誌に写真付きでインタビューに答えている。
日本がポツダム宣言を受け入れ、連合軍との戦闘を停止したあとの昭和20年(一九四五)8月20日に、ソ連軍が樺太の真岡に上陸し、多数の民間人が犠牲になった。その際、真岡郵便電信局を最後まで守り自決した女性交換手たちも、こういう記事を読んで育った世代なのかもしれない。
面白いのは、当時の時事解説名人として有名だった太田正孝という人の「時事問題早わかり」というコーナーだ。ちょうど『キング』のこの号に、ヒトラーがロカルノ条約を破棄し、ラインラントに進駐した話が出ている。
二・二六事件の記事のあとに、隅田川で大きな鯉が捕まり、食べてしまうにはあまりにも惜しいので、皇太子殿下に献上するかたちで宮中の池に放されたという話題もある。『キング』という雑誌の記事の99%は、こうした何気ない普通の面白い話題であった。


