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戦前にも100万部雑誌があった! 軍国主義なんて関係なし

本当のことがわかる昭和史《4》二・二六事件と国民大衆雑誌『キング』(14)日本人は本来「自由」を愛する国民だったのに

渡部昇一
上智大学名誉教授
情報・テキスト
『キング』改め『富士』 (敵性語排斥で改題、昭和18年3月号)
Wikimedia Commons
日本人が本来、いかに「自由」を愛する国民であるかは、当時の『キング』の売れ方を見れば一目瞭然であろう。やはり、二つのことが悔やまれてならないのである。一つは、幣原外交に象徴される「協調外交」という道をとってしまったことだ。もう一つ悔やまれるのは、ソ連やナチス・ドイツに幻惑されてしまったことである。上智大学名誉教授・渡部昇一氏によるシリーズ「本当のことがわかる昭和史」第四章・第14回。※収録環境や収録機材の都合により、映像の音声が聞き取りにくい箇所がございます。あらかじめご了承ください。
時間:06:45
収録日:2015/01/19
追加日:2015/09/03
タグ:
≪全文≫
 「面白づくめ号」という増刊号もある。漫画をはじめ、全部面白い話ばかりが載っていて、軍国主義の色などみじんもなく、1ページたりとも軍事的なことは書かれていない。少なくともこの時代までは、日本は「真っ暗」ではなかったことは、注意しておかねばならないことである。

 私は「『キング』はどういう雑誌ですか」と聞かれたら、「『文藝春秋』と『週刊文春』と女性雑誌を合わせて圧縮して一冊にしたような雑誌です」と答えている。

 こういう雑誌には、どうしても週刊誌の要素も入ってくる。当時は皆で本を貸し合っていた時代であったにもかかわらず、発行部数が100万部を超えることもあったことには本当に驚かされる。戦後隆盛を誇った月刊誌『文藝春秋』でも最盛期の発行部数が100万部を超えたが、現在は印刷証明部数で50万部を割っているそうだ。戦前の100万部といったら、いまの感覚としては500万部ぐらいになるのではないだろうか。

 当時の田舎には新聞配達もなく、普通の家に活字はほとんどなかった。田舎でも少し知的欲求がある青年がいる家で『キング』を買っているぐらいだったが、たまたま私の実家では『キング』を定期購読していた。

 皇室から下々の国民まですべてを扱うというのが『キング』の趣旨だったから、誌面には皇室の写真もあれば、総理大臣の写真もある。二・二六事件の頃でさえ面白い話題ばかりがたくさん載っていた。私はこういう雑誌を子供の頃に読んでいた記憶があるから、いまの人たちがいうように、戦前の日本は軍国主義一色だったという話を聞くと馬鹿馬鹿しく思えて仕方ないのである。実際、『キング』のどこを読んでも軍国主義は見られないのだ。

 ちなみに二・二六事件の翌年の昭和12年(1937)に大いに流行った歌は、『もしも月給が上がったら』である。『うちの女房にゃ髭がある』は昭和11年。有名な『東京ラプソディー』も昭和11年に流行った歌で、一般大衆はまったくの平和路線を行っていた。

 第一次世界大戦後のパリ講和会議以来、日本では自由主義が一世を風靡していた。大正デモクラシーに引き続き、昭和初期にもデモクラシーが支持され、当時の大衆の間には自由主義がもてはやされていた。

 だが、ともすれば自由主義は「エロ・グロ・ナンセンス」などといった様相を見せるようにもなる。現実に、そういう流行りもあったから、その世相を見て、「やはり自由主義、個人主義では駄目だ」という声が出てくるようになる。

 そして、そのような声が出てくる背景にも、軍の秀才たちが第一次大戦当時にヨーロッパに渡って現地を見て「このままでは日本は戦えない国になる」と衝撃を受けたことがあった。第一次世界大戦で戦争の様相が大きく変わり、総力戦の時代になった。そういう中で、国民を総動員できる国にしなければ、つまり国家社会主義でなければ戦争ができない国になってしまうという考えが台頭してきたのだ。

 国家社会主義を標榜して台頭してきたナチス・ドイツに共感して「やはり自由主義ではダメだ」と考えてしまう軍人が多かったのも、その理由からである。また、広田内閣は当初、吉田茂を外務大臣として入閣させようとしたのに対して、「あんな自由主義者は駄目だ」と陸軍が拒否したのも、同じ考えからであった。

 だが、日本人が本来、いかに「自由」を愛する国民であるかは、当時の『キング』の売れ方を見れば一目瞭然であろう。

 そのことを考えると、やはり、二つのことが悔やまれてならないのである。一つは、幣原外交に象徴される「協調外交」という道をとってしまったことだ。「自由」を守るためには、むしろ強く、賢くあらねばならなかった。何でもかんでも「相手を刺激せぬよう」「相手に慮って」「誤解されぬよう、とりあえず弱腰に」などということであったら、あまりに「ふやけすぎ」である。日本人がすでに100万人も住んでいた大陸の情勢には無関心に近かった。それでは反感が昂じて、反動で強硬路線が台頭するのが関の山である。大陸オンチの西洋かぶれの当時の秀才たちには見えていなかったのかもしれない。

 もう一つ悔やまれるのは、ソ連やナチス・ドイツに幻惑されてしまったことである。いくら日本が「持たざる国」として焦りを抱えていたとはいえ、社会主義的な志向にとらわれてしまったのは、大いなる過ちであった。

 現実に、シナ事変が始まると国家総動員法が成立して、社会主義的な国家統制色が強くなっていくが、それでも大東亜戦争で大きく劣勢に追い込まれる昭和19年ぐらいまでは、日本の社会にはまだ「自由」の息吹はあった。しかし、敗色が濃厚になるにしたがって、物資がなくなり、生活もどんどん息苦しくなっていった。そんな日々の中で、私などは、数年前の楽しく『キング』を読んでいたような時代が、早く...
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