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これによって荒木・真崎時代が到来する。そして荒木陸相は、いわゆる皇道派人事を臆面もなく展開したのである。
宇垣大将の子飼いで陸軍次官を務めていた杉山元中将を久留米の第十二師団長にし、二宮治重参謀次長は広島の第五師団長、参謀本部の参謀第一部長になっていた建川美次少将を参謀本部付にして、ジュネーブ軍縮会議の陸軍代表として派遣した。軍務局の軍事課長を務めていた永田大佐も参謀本部第二部長という閑職に回された。
宇垣大将の直系ではたった一人、小磯中将だけは次官に残すが、自派の山岡重厚少将を軍務局長にして目付役とした。また、陸軍省の人事局長には福岡出身の松浦淳六郎少将を任命し、秦真次中将を憲兵司令官にしている。
ところが、荒木陸相に対する当時の世論は悪くなかった。私もよく覚えているのだが、荒木陸相は当時非常に評判が良かった。私が子供の頃の鉛筆は面白くて、乃木鉛筆、東郷鉛筆などというものがあったが、荒木鉛筆もあったように記憶している。
そのような国民的な人気の背景には、荒木陸相が「皇軍」や「皇国」という言葉を好んで使い、精神主義的で右翼的な言動を繰り返していたため、青年将校に絶大な人気があったことがあるのだろう。その意味で、いまからいえば青年将校は日本のガンのような存在だったのかもしれないが、軍法会議の裁判官が首相を殺した容疑者を死刑にできないほど、青年将校たちが当時の国民に支持されていたことが、忘れがたいのである。
それはある意味で、学生紛争の頃に学生たちがあんなに馬鹿なことをやっていたにもかかわらず、なかなか抑えが利かなかったのと似ている。いや、それをさらにスケールアップさせたようなものといえるだろう。
荒木陸相はつねに「革新」を口にし、昭和維新を彷彿とさせるようなことを述べていた。そのため何となしにではあるが「青年将校をうまく扱えるのは荒木将軍しかいない」という世論になっていた。荒木陸相が陸軍部内でこれだけ乱暴な人事を行なっていても、普通の人には関係がなかった。
彼が人事で行なったことは、田中義一、宇垣一成以来の穏健な陸軍主流派をすべて外したということにほかならない。何よりも荒木陸相自身が「青年将校は維新の志士である。位は低いが志は高い。上級将校たちは、たとえてみれば、幕末の頃の各藩の家老のごときものである」という声明を行なっている...
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概要・テキスト
荒木貞夫
Wikimedia Commons
人事面の争いを経て、荒木中将は昭和6年、犬養毅内閣に陸軍大臣として入閣。これによって荒木・真崎時代が到来する。そして荒木陸相は、いわゆる皇道派人事を臆面もなく展開した。上智大学名誉教授・渡部昇一氏によるシリーズ「本当のことがわかる昭和史」第四章・第2回。
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