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非常に表面的に見れば、明治維新と昭和維新は、わりと似たような構図であるといえるかもしれない。
明治維新のときには下級武士たちが幕府上層部の偉い人たちは駄目だと意気に燃えて立ち上がり、そしてやがて偉くなって日本の指導層に上り詰めていった。
一方、これは多少勘ぐりになるが、二・二六事件では陸軍エリートの登竜門だった陸軍大学に行けなかった青年将校たちが、日本を悪くする君側の奸臣、権門階級を一掃することを唱えて立ち上がった。それがクーデターの主要な動機にはなりえないとしても、心のどこかには、もはや軍全体を動かせるほどに出世することが見込めないから、武力を使ってでも自分たちが目指す天下を実現したいという野心もあったかもしれない。
だが、明治維新と昭和維新に大きな差があるとすれば、それはおそらく外圧の種類の違いである。
明治維新は、欧米列強の圧力という国難から立ち上がるため、日本という国をあるべき姿に変えていこうという意識から生まれたものであった。しかし昭和維新は、舶来の社会主義思想が大正時代に日本で流行したことを背景としている。逆にいえば、社会主義がなければ昭和維新という発想は生まれなかった。
その意味で、ロシア革命を経てソ連という国がつくられたことの影響は大きかった。要するに、天皇陛下に忠節を尽くすことを除けば、青年将校たちがやろうとしていたのは、革命にほかならない。右翼と左翼の違いは事実上、天皇陛下を肯定するか否定するかどうかの差でしかなかった。統制派は国家社会主義であり、革新官僚はむしろボルシェビキ(レーニンを指導者としたロシア社会民主労働党の左派)に近い。
ロシア革命にも平気でいられたアメリカは物資が豊富だったので、経済を統制しなくてもよかったが、日本やドイツは経済統制をしなければ、次の戦争に備えることができなかった。むしろ日本は重要物資が入ってこなくなったため、戦争に向かわざるをえなかった。こうした日本の行く末を心配するあまり精神を病む人もいて、国力を総動員するための計画をつくらなければ駄目だと主張した人もいたわけだ。
つまるところ、大恐慌後、苦境にあえぐ資本主義列強を尻目に躍進しているように見えたソ連やナチス・ドイツの姿を見て、あたかも国家社会主義は非常に有効な制度であるかのように映り、当時の日本人は幻惑されたのだ。実際、...
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概要・テキスト
演説するレーニン
非常に表面的に見れば、明治維新と昭和維新は、わりと似たような構図であるといえるかもしれない。だが、明治維新と昭和維新に大きな差があるとすれば、それはおそらく外圧の種類の違いである。上智大学名誉教授・渡部昇一氏によるシリーズ「本当のことがわかる昭和史」第四章・第12回。
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