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ところが、ここまで皇道派が勢力を拡大すると、「これではいけない」と考える人たちが出てくるようになる。いま、われわれの記憶に残っているのは永田鉄山少将(死後、中将)、東條英機少将(のち大将)、武藤章中佐(のち中将)、富永恭次中佐(のち中将)、今村均大佐(のち大将)、それから池田純久少佐(のち中将)、四方諒二少佐(のち少将)などの人物で、彼らは統制派と呼ばれるようになった。
だが、「統制派」といっても、実際問題として「派閥」としては陸軍部内における皇道派が抜きん出ており、おおまかにいえば、皇道派ではなかった人たちが統制派と呼ばれたのが実情である。
彼らは、少なくとも自分たちは戦争が専門であるとわきまえていた。彼らは第一次大戦の現状を見て、戦争だけの計画では不十分で、国家全体を改造しなければトータル・ウォー(総力戦)は難しいという危機感を抱いていたが、自分たちは経済分野の素人であるという立場から、プロの経済官僚たちに声をかけるようになる。
その経済官僚たちは「革新官僚」と呼ばれ、池田純久少佐などの陸軍の経済官僚とともに国家総動員法や電力国営法をはじめとする経済統制を推進した。
革新官僚で最も有名なのが岸信介元首相で、終戦時の鈴木貫太郎内閣で内閣書記官長を務めた迫水久常や唐沢俊樹、和田博雄といった、戦後にも活躍した有名な人たちが参画していた。
そして昭和7年(1932)5月26日に成立した斎藤実内閣(~9年〈1934〉7月8日)で、反皇道派が台頭する契機となる事件が起こる。
斎藤内閣には荒木中将が陸軍大臣として入閣したが、その当時は真崎中将が参謀次長、教育総監を林銑十郎大将が務めていた。
荒木中将は昭和9年(1934)1月、陸相を退任する。病気のためとされるが、一説には、先に見たように青年将校たちに反感を持たれ、統制が取れなくなったことも理由といわれる。荒木陸相のあと、同年1月23日に陸相になったのは林銑十郎大将であった。永田少将(昭和7年4月11日に少将に進級)も同年3月5日に軍務局長になり、軍中央に復帰している。真崎中将は昭和8年6月19日に大将に昇進して教育総監になり、柳川平助中将が陸軍次官になった。
この柳川平助という人は、その後、台湾軍司令官に流されているが、非常に戦争がうまい人だった。シナ事変で上海がなかなか落ちずに死傷者が続出した際、新編制の第十軍司令官となり、杭州湾への上陸(昭和12年〈1937〉11月4日)を見事に成功させている。三個師団半からなる第十軍が、「日軍百万杭州湾上陸」のアドバルーンを掲げて上陸し、上海に立てこもった蔣介石軍を崩壊させ、一気に南京まで占領したのは第一章で述べた通りだ。
斎藤内閣当時、若干の異動はあるものの、憲兵司令官は秦真次中将、整備局長は山岡重厚少将(のち中将)、軍務局の軍事課長は山下奉文大佐(のち大将)で、陸大幹事が小畑敏四郎少将(のち中将)という陣容だった。
林陸相は、満洲事変の折に朝鮮軍司令官を務めていたが、独断で満洲に侵攻し「越境将軍」と呼ばれた、いわくつきの人物である。だが林大将は派閥争いに距離を置いており、陸相就任後に永田少将を軍務局長に起用するなど、皇道派の勢力を抑える人事を行なった。ちなみに、永田少将を軍務局長に起用するための条件として、真崎中将が示した条件が、東條少将の士官学校幹事への左遷である。
当時、参謀総長の地位にあった閑院宮殿下は真崎中将を嫌っていた。病気で退任した荒木中将の後任として真崎大将を推す声があったにもかかわらず、殿下が林大将を陸相に推薦したのも、そのためである。
渡辺錠太郎軍参議官も、荒木陸相の人事はまずいのではないかという立場を取り、朝鮮軍司令官から軍参議官に転じた植田謙吉大将も林陸相と永田少将を擁護し、荒木人事に歯止めをかけるため、柳川陸軍次官を東京の第一師団長に、秦憲兵司令官を仙台の第二師団長にそれぞれ転出させた。その代わりとして東條少将は中央を追われ、久留米の第二十四旅団長に左遷されたのである。
なぜ、そうまでして林陸相はこうした人事を行なったのかというと、皇道派に対抗しうる最も重要な人材が、永田少将であることを理解していたからである。林陸相は、永田少将の考えていることこそ、今後の日本陸軍の生きる道だと評価していたのだと思われる。


