社会人向け教養サービス 『テンミニッツ・アカデミー』 が、巷の様々な豆知識や真実を無料でお届けしているコラムコーナーです。
DATE/ 2017.07.21

「野鴨の哲学」とはどういうものか?

 2011年にWeb上にアップされた「IBM創立100周年記念サイト」には、「Wild Ducks(野鴨たち)」という映像が紹介されています。「野鴨の精神」はIBMの底流に流れるものであり、1959年当時IBM会長だったトーマス・ワトソンJr.は、「ビジネスには野鴨が必要なのです。そしてIBMでは、その野鴨を飼いならそうとは決してしません」と言ったというのです。1960年代から1980年代にかけてコンピュータの世界に君臨したトップ企業を支えた「野鴨の精神」とは、どういうものなのでしょうか。

渡りをやめた野鴨の話

 デンマークの首都コペンハーゲンは、シェラン島(ジーランド)という島の東部にあります。島の北部には、「ハムレット」の舞台となったクロンボー城、歴代デンマーク王の居城フレデリクスボー城があり、大きな森と有数の湖沼地帯を抱えることでも有名です。

 湖には毎年、野鴨が飛来します。1万キロを超える旅をねぎらうため、近くに住む古老が餌をたっぷり用意して待つようになりました。もちろん渡り鳥である鴨は、容易には餌付けされません。しかし、毎年繰り返される饗応に、やがて野鴨たちは「何も苦労して次の湖へ飛び立つ必要はない」と思ったのでしょうか。とうとうそこに住み着いてしまいました。

 そのうちに、老人が亡くなる日がやってくると、餌をもらえなくなった鴨たちは、自力で餌を探し、次の湖へ旅する必要にかられました。ところが、あてがいぶちのご馳走に慣れ、野生をなくしてしまった鴨たちは、まるでアヒルのように肥え、羽ばたいても飛べなくなっていました。

 そこへ近くの山から雪を溶かした激流がなだれ込んできました。ほかの鳥たちは丘のほうへ素早く移動しましたが、かつてたくましい野生を誇った鴨たちは、なすすべもなく激流に飲み込まれていった、というお話です。

「野鴨の話」と実存哲学

 この話は、コペンハーゲン生まれの哲学者、セーレン・キェルケゴール(1813-1855)が残したものです。7人兄弟の末子として、家政婦から後妻になった母と、裕福な商人の父の間で育った彼は、若い頃から憂鬱な傾向がある一方、物事を深く見据え、容易には承知しない実存哲学者の先駆けとして、『死に至る病』などの著書を残しました。

 なぜ、「野鴨の話」が実存哲学とつながるのでしょうか。それは彼の死後、ドイツの哲学者ハイデッガーが、この話を「被投的投企の哲学」と呼んだからです。

 人間は誰しも生まれる場所も時間も選べない。ハイデッガーの言う「投げ込まれた(被投)」状態ですが、その限られた状態の中で、これからどういう在り方をすべきかは、自分の責任で瞬間ごとに決めていけます(被投的投企)。哲学用語にすると難しくなりますが、「野鴨」に託されているのは、そのことだというのです。

 それに比べると、冒頭のIBM会長の解釈である「飼い慣らされてはいけない。飼い慣らしてはいけない」は、いかにも明快に聞こえます。実は「投企」は英語ではプロジェクト(project)ですから、まだ誰も行ったことのないビジネス上の冒険を進めていくことは、「被投的投企」の連続状態とも呼べるわけです。

現代日本に「野鴨の哲学」を

 いずれにせよキェルケゴール自身は、「飼い慣らされない」ことを他者、主に当時の教会の在り方への懐疑と批判としてぶつけたため、同時代人からたいそう嫌われたと言います。

 その内容は過激で、「この生は一回きりのものだから、ただ漠然と時を過ごすことは罪悪である。月曜から土曜までなんとなく安穏に生きた市民たちが、日曜の教会で賛美歌を歌えば許されるという考えも、それを勧める牧師の説教もちゃんちゃらおかしい」と言うのですから、嫌われても仕方ないでしょう。

 42歳の秋に、キェルケゴールはコペンハーゲンの路上で卒倒し、雪かきが必要なほど大雪が降る日まで誰にも助け出してもらえず、そのままなくなりました。攻撃を受ければ受けるほど、「私は紛れもなく生きている」と感じた「野鴨の哲学」は、現代の日本にこそ必要である、と日本BE研究所所長の行徳哲男氏は語っています。
~最後までコラムを読んでくれた方へ~
雑学から一段上の「大人の教養」はいかがですか?
明日すぐには使えないかもしれないけど、10年後も役に立つ“大人の教養”を 5,600本以上。 『テンミニッツ・アカデミー』 で人気の教養講義をご紹介します。
1

なぜ「何回説明しても伝わらない」のか?鍵は認知の仕組み

なぜ「何回説明しても伝わらない」のか?鍵は認知の仕組み

何回説明しても伝わらない問題と認知科学(1)「スキーマ」問題と認知の仕組み

なぜ「何回説明しても伝わらない」という現象は起こるのか。対人コミュニケーションにおいて誰もが経験する理解や認識の行き違いだが、私たちは同じ言語を使っているのになぜすれ違うのか。この謎について、ベストセラー『「何...
収録日:2025/05/12
追加日:2025/11/02
今井むつみ
一般社団法人今井むつみ教育研究所代表理事 慶應義塾大学名誉教授
2

ケルト神話とは…ダーナ神族、アルスター神話、フィアナ神話

ケルト神話とは…ダーナ神族、アルスター神話、フィアナ神話

ケルト神話の基本を知る(1)ケルト地域と3つの神話群

ケルト神話とは何か。ケルトという地域は広範囲にわたっており、一般的にアイルランドを中心にした「島のケルト」と、フランスやスペインの西北部などに広がった「大陸のケルト」があるが、神話が濃厚に残っているのはアイルラ...
収録日:2022/04/12
追加日:2023/07/23
鎌田東二
京都大学名誉教授
3

横井小楠が説く「世界の幸せのお世話係」こそ日本の使命

横井小楠が説く「世界の幸せのお世話係」こそ日本の使命

徳と仏教の人生論(4)克己と天壌無窮

西郷隆盛が悟った「克己」、『日本書紀』に出てくる「天壌無窮」、これらの重要性をはじめ、東洋思想における欲望と肉体の関係については、まさに宇宙との対話につながる論理である。また、儒・仏・道・禅・神道の5つの東洋思想...
収録日:2025/05/21
追加日:2025/11/01
4

「土地勘のあるところ、自分たちの武器を持っていく」

「土地勘のあるところ、自分たちの武器を持っていく」

エンタテインメントビジネスと人的資本経営(5)「チーム戦と新規ビジネス」の要点

経営は個人戦でなくチーム戦であり、経営メンバーは「人材の組み合わせ」が大事である。かつて本田宗一郎には藤沢武夫、井深大には盛田昭夫がいたからホンダもソニーも大きくなれた。また、新規ビジネスを始めるときは大事なの...
収録日:2025/05/08
追加日:2025/11/03
水野道訓
元ソニー・ミュージックエンタテインメント代表取締役CEO
5

なぜ算数が苦手な子どもが多いのか?学力喪失の真相に迫る

なぜ算数が苦手な子どもが多いのか?学力喪失の真相に迫る

学力喪失の危機~言語習得と理解の本質(1)数が理解できない子どもたち

たかが「1」、されど「1」――今、数の意味が理解できない子どもがたくさんいるという。そもそも私たちは、「1」という概念を、いつ、どのように理解していったのか。あらためて考え出すと不思議な、言葉という抽象概念の習得プロ...
収録日:2025/05/12
追加日:2025/10/06
今井むつみ
一般社団法人今井むつみ教育研究所代表理事 慶應義塾大学名誉教授