●ニーチェは24歳という異例の若さで教授に抜擢される
最後の10回目はニーチェです。ニーチェといえば、何といっても「超人」という考えが極めて有名です。これがどういうことなのかについてお話をします。
ニーチェは、マルクスと同じように、19世紀の後半に活躍しました。19世紀の最後の年である1900年に亡くなっています。ドイツのライプツィヒという、昔の東ドイツに当たるところで生まれ、お父さんは牧師でした。彼は若い頃から極めて優秀な学生であり、24歳という異例の若さでバーゼル大学の教授に抜擢されます。ドイツは教授になるのが非常に遅いので、大体、若くても30代後半でなければ教授にはなれないのですが、24歳というのは、本当に異例中の異例の抜擢なのです。
彼の主著は、有名な『ツァラトゥストラはこう語った』(以下、『ツァラトゥストラ』)、そして遺稿である『力への意志』です。本当は『ツァラトゥストラ』が一番重要な著作なのですが、これは非常に分厚く読みづらいので、ニーチェ自身が書いた『善悪の彼岸』『道徳の系譜』が入門書としては良いのではないかと思います。
●ニーチェの思想の中心は強いニヒリズムである
『ツァラトゥストラ』や『善悪の彼岸』『道徳の系譜』で示されている彼の思想を一言でいうと、ニヒリズムであるということです。ニヒリズムは、「ニヒル」というラテン語と、「イズム」という接尾辞から成っています。「ニヒル」はラテン語で無(ない、ナッシング)を意味する言葉で、日本語では虚無主義と訳したりします。
通常は、普通だったら人々がこういうものが大事だなと考えている価値や目標、生きがいなどは全て虚しく、そんなものには実は価値がないのだ、そのためもう何をやったら良いのか分からない、何もやらなくて良いといった、少し後ろ向きなメンタリティのことを「ニヒリズム」と呼びます。ただしニーチェのニヒリズムは、そうした、いってみれば無気力と通じるようなニヒリズムとは全く異なり、むしろ逆の、いわば強いニヒリズムでした。それは一体どういうことなのでしょうか。
●ニーチェがいう善悪はルサンチマンから生まれる
彼のニヒリズムの根底には先ほど申しました虚無主義があります。つまり、価値や生きがいには意味がないのだという洞察が根底にあるのです。なぜニーチェはこれを主張したのでしょうか。先ほどニーチェの家庭は牧師の家庭であったと申しました。彼のおじいさんもお父さんも牧師であり、お母さんは牧師の娘でした。そうした家柄なので、いわば当然のことながら、ニーチェ自身も牧師になることが期待され、育てられました。
ところがニーチェは、子どもの時から神様が大嫌いでした。「天の父は悪の父」と10歳ほどから言っていたという話があるのですが、彼はキリスト教を当面の仮想敵にします。ニーチェは、キリスト教の考えは根本的に誤っていると言います。
キリスト教は、アウグスティヌスのレクチャーの時にお話ししましたが、全ては神が創ったと見なします。したがって、天地や人間を神が創ったのと同様に、善悪の価値も当然、神が創ったことになります。そして、神が何を善とし何を悪とするかということも全て聖書に書いてあります。そのため、何をやればいいのか、何が善か、そして何をやれば神に善人と認められて天国に行けるのか、ということは全て神が決めているというのがキリスト教の基本的な考え方です。
それに対してニーチェは、それは全く間違いだと言います。ニーチェがいう善悪の起源は、通常の私たちの考えとは全く違うものです。むしろ意表を突くものでした。彼に言わせると、善悪は所詮、現実の勝負で負けた者や弱い者の嫉妬心、すなわちルサンチマンから生まれるということです。
●善悪は弱者の嫉妬心から生まれたものにすぎない
誰か非常に強い、例えば腕力が強く財力も勝っており、政治力や知恵もあり言葉も巧みな人、あるいはそうしたグループにボコボコにされた人がいるとします。その人たちは、強者に対してどうしてもかないません。腕力でもかないません。向かっていってもやっつけられてしまいます。財力でもかないません。政治力でも何ともできません。何か罠を仕掛けようと思ってもすぐ見破られてしまいます。どうしてもかなわないという状況です。
そうした状況に置かれたときに弱者はどういうことを考えるかというと、「どうせズルをしているのだろう」と考えます。例えば、「ああして金儲けをできているのは、きっとズルをしているからに違いない」「何か株の裏操作とかをしているに違いない」など、そうしたことを言い立てようとします。そうして、「強者は実は悪いやつなのだ」という、レッテルを貼るのです。強者を悪者だと言えば、その反対...