吉田松陰の『留魂録』が時代に遺したもの
「遺書文学」の最高峰『留魂録』
歴史上の人物の遺書、最期の言葉というのは、その人生が凝縮されているようで、興味がつきません。特に日本には「辞世」というある種の文学的な形式があり、その一生の振り返り方も実にさまざまです。たとえば、権勢をきわめた太閤秀吉が「露と落ち露と消えにし我が身かな 浪速のことも夢のまた夢」と、人生のはかなさをうたったかと思えば、その秀吉に天下取りという意味では屈した伊達政宗が「曇りなき心の月をさきたてて 浮世の闇を照らしてぞ行く」と、澄んだ心境を詠じています。あの幕末の志士、吉田松陰の辞世は「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留置かまし大和魂」と、「これぞ松陰」と思わせるもの。実は、吉田松陰は処刑を控えた牢内で、松下村塾の門下生のために『留魂録』という遺書を書き上げており、「身はたとひ~」の歌はその冒頭に掲げられているものなのです。
歴史学者・山内昌之氏も、「もし遺書文学という文学のジャンルがあるとするならば、松陰の『留魂録』はその中でも屈指のものと言える」と、この『留魂録』を大変高く評価しています。
一生を春夏秋冬になぞらえる
では、松陰のこの遺書がどういう点で「遺書文学」と言えるほど優れているのでしょうか? 山内氏はまず、全編を貫く高い精神性を挙げます。自らの死、しかも処刑の直前にもかかわらず一切の乱れを見せず、高い志、明確な思想を書き著している点。また、最後には弟子たち一人一人にむけて、その個性や人がら、適性に合ったアドバイスを送っている点。いずれも、来る時代とその時代を担うべき人たちへの松陰の強い意志と細やかな配慮を物語っています。この遺書の中で、松陰は人の一生を春夏秋冬の循環にたとえています。「人の一生はその長い短いによらず、春夏秋冬のようなものだ。自分は若くして死ぬこととなり成し得たことは乏しいかもしれないが、その志は自然の営みと同じように同士や弟子たちに受け継がれるのならば、やがて恥じることのない収穫の年を迎える」、こう説き、自分がまいた志の種が尽きることのないよう、弟子たちに手渡しているのです。
松陰の死がもたらしたもの
松下村塾の存在自体は、長州藩の主流ではなかったため、松陰の処刑がすぐに藩論に影響したわけではありませんでした。しかし、まいた種が地中深く、養分を蓄えて発芽に備えるように、松陰の言葉は弟子たちに改めて不退転の覚悟をもたらしました。安政6(1859)年10月27日に松陰は処刑されたのですが、その最期の姿は非常にむごいもので、斬首のあと下帯一枚で放りだされたと伝えられています。その亡骸を引き取り、自らの羽織を着せてやったのが桂小五郎。棺桶を引く弟子たちの中には伊藤俊輔(のちの伊藤博文)がいました。こうした松陰の無残な最期も、弟子たちの目に焼き付かれ、心に深くしまわれたのでしょう。
明治の収穫期を予感していた松陰
こうして、松陰は死してなお、同士、弟子たちに深く影響を及ぼし続け、長州藩は薩摩藩とともに倒幕の中核を成すことになります。長州の倒幕運動の中心にいた前原一誠は、松陰の死にあたって、「先師は忠義に死した。その門下生である自分が正しい生き方に準じないとするならば、一体自分には何の面目、名誉があるだろうか」と述べたと言われています。彼はその後、明治9(1876)年の萩の乱で明治政府に対する反乱を起こしたかどで処刑されますが、その言葉のとおり、師である松陰の志に背くことを良しとしなかったのでしょう。一方で、木戸孝允(桂小五郎)、伊藤博文、山縣有朋といった多くの長州藩士が明治新政府の要職に就きます。前原のように散った花も、木戸らのように咲いた花もどれも松陰がまいた種から育ったもの。非業の死をとげた松陰は、自らの冬が、やがていっせいに芽吹き新時代の春に、そして遠い収穫の秋につながっていることを予感していたに違いありません。