●吉田松陰が死の直前に書いた『留魂録』は世界屈指の遺書文学
皆さん、こんにちは。
今日は、吉田松陰の処刑とその意味について考えてみたいと思います。
松陰は、安政6(1859)年10月27日に、30歳の若さで幕府によって処刑されます。これは、有名な大老・井伊直弼による安政の大獄の一環として行われました。松陰は首を斬られ、誠にむごいことに下帯一枚で放り出されます。
その時、弟子たちは、小塚原で放り出された松陰を引き取り、その亡骸に桂小五郎が自らの羽織を着せ、棺桶に入れて引っ張っていきました。その一人が伊藤俊輔こと後の伊藤博文でした。彼らは、こうした松陰の悲劇を目の当たりにしながら育っていくことになるのです。
松陰は、死の直前に牢屋の中で、『留魂録』という有名な遺書を書きます。これは大変優れた遺書です。世界に遺書文学と言うべきカテゴリーを設けようとすれば、松陰の『留魂録』は、まさにその遺書文学の中でも屈指のものです。
●松陰は最後、死ぬ間際になっても教育を続けていた
松陰は、その中で、「自分はこのように若くして死ぬけれども、10代で死ぬ者にはそれなりの春夏秋冬があり、20代、30代で死ぬ者にもそれなりの春夏秋冬もある。また、それ以上生き延びたものにも春夏秋冬がある」というような有名な言葉を述べています。つまり、人間がどの歳においても、やるべきことをそれなりにやった。それは、自分の志や実際に成し得たことは乏しいかもしれないけれども、春から夏、秋、冬へと至っていく人の営みに似た経験を自分もした、と語っているのです。それが『留魂録』でした。
そして、自分の説いた教えを、同志や弟子たちが継いでくれるとすれば、自分がまいた種は尽きない。そして、収穫が行われるとすれば、収穫の時期に恥じないものになるだろう、と記していました。
『留魂録』の最後には、弟子たちに対して一人一人の適性や個性に合ったアドバイスをしています。松陰は死ぬ間際になっても教育をしているのです。
その文章は、今日全て紹介できませんけれども、非常に高い精神性にあふれており、死の直前にこれだけのものを書ける人物がいたという点で、人々に感動を与えます。
世界史の中にも、これほどの人物は他にいないでしょう。いずれ機会を捉えて、『留魂録』の全てではないにしても、一部を原文...