●孝明天皇の「攘夷」の勅命と、幕府による「攘夷決行」の公約
皆さん、こんにちは。
長州藩の過激な尊王攘夷論の台頭と、それに基づく京都市中における、現在で言うところの「テロ」や暗殺の横行に対して、幕府は大変苦慮します。治安の維持は、もとより政府の責任だからです。
しかも、京都における長州藩の過激派は、朝廷に対してもいわゆる「入説」を行い、孝明天皇などを動かそうとしました。こういった朝廷筋からの圧力によって、幕府は「いつ攘夷をするのか」と迫られます。そんなことは無理だと知りながら、天皇の意思を持ち出されるため、幕府はたまらず文久3(1863)年の3月になった時点で、「攘夷決行は5月10日」と、日付まで告げてしまいます。その結果、幕府は孝明天皇に「攘夷決行」を奏上し、公約することになりました。当然ながら、各藩にも通達が行われます。
●単独の攘夷決行が、幕末の長州藩を際立たせる地位に置いた
そして、5月10日がやってきます。他の藩はそうしたことは無理だと知っていますから何もしませんが、唯一長州藩だけが、実際の「措置」を取ります。下関(馬関)海峡、現在の関門海峡を通過していくアメリカの商船、フランスの通報艦、オランダの軍艦に対して、次から次へと砲撃を仕掛けていったのです。
翌月、4カ国による報復の戦が起こります。英、仏、蘭、米による4カ国艦隊が長州藩を攻撃することになったのです。最新式の大砲で艤装(武装)された欧米の近代的な海軍に砲台を攻撃されては、かなう術もありません。フランス軍艦に襲撃され、下関の「前田砲台」を占領されます。
しかしながら、これを通して長州藩は、藩論である攘夷を実際に決行した点で、京都の商人たちを含めた人々から高く評価され、「嘘を言わない」と人気を集めるのです。この「攘夷決行」こそが、幕末の長州藩を際立たせ他藩とは異なる地位に置いたのです。
●水戸藩と長州藩の違いは「知行合一」への妥協の有無
桜田門外の変を見ると、水戸の浪士たちが井伊直弼を暗殺して首を取ったことから、水戸藩はさも過激である印象を与えます。しかし、実のところは、最も早くから「攘夷」を唱えながらも、水戸藩主の徳川斉昭が「御三家」の一員であったことから、言葉と行動は伴いませんでした。常陸の海岸に砲台を造りましたが、攘夷を決行したかと言うと、具体的行動は...