●幕末の長州藩を考える際に一番重要なポイントは地理的なロケーション
皆さん、こんにちは。今日は、長州藩について少し語ってみたいと思います。
長州藩は、黒船が来航する20年ほど前の天保年間に藩政改革を行います。このことによって、海防、すなわち、外国からの脅威に対する国防を強化するのです。この点からすると、長州藩は、国防意識、あるいは、安全保障に関する関心が高かったと思われますが、果たして、実際はどうだったのでしょうか。
幕末の長州藩を考える際に一番重要なポイントは、長州と周防、すなわち、今の山口県が置かれていた地理的なロケーション(場所)で、言わば地政学とも言うべきものです。
地図をご覧になればすぐにお分かりになるように、長州藩は朝鮮半島を介して、中国をはじめとするアジア大陸に最も近い日本の藩、すなわち、日本の事実上の小国の一つであり、大陸であれ海であれ、おのずと外に対する意識は高いものがありました。
●村田清風の国防論と長州藩の海防への強い意識
外に対する意識とはどのようなことかと言うと、この海の彼方からもし敵が攻めてきたらどうするのか、すなわち、長州藩の安全保障に対して脅威が現れたらどうするのかという問題意識です。
そういう問題意識を持って自分たちの藩を改革しなければならないと考えたのが、村田清風でした。長州藩の藩政改革は、アヘン戦争と同時期の天保11(1840)年に始まりますから、まさに村田清風は、アヘン戦争のインパクト、あるいは、アヘン戦争が奏でてくる脅威、すなわち、当時の中国を取り巻く国際環境を、十分に意識していたということでしょう。
村田清風は、藩の重役に挙げられた時、藩主の毛利敬親に対して、「いつ外国船が攻めてくるか分かりません。いつ攻めてきてもおかしくないのです。そういう状況において大事なことは、軍事技術の習得が第一番目です。そのためには、外国に対する国の守りを固める必要があります」と進言します。
毛利敬親は、この進言を受け入れまして、対外防備を主眼とする大規模な操練(軍事訓練)を行います。すなわち、藩全体で海防に取り組む強い意識を持って、藩士たちの士気を高めようとしたのです。このことが、後に吉田松陰などを生む時代の背景になっていきます。
●村田清風から国防論を引き継いだ吉田松陰
村田清風は、黒...