●京都での失地回復のため、禁門の変を起こす
皆さん、こんにちは。
文久3(1863)年の8月18日のクーデター、そして、元治元(1864)年の6月の京都の池田屋事件などによって、長州藩は京都における政治的な影響力を失い、かつ、多くの有能な有為の若者が斬られるという事態となりました。
これに対して、長州藩は、冤罪であるとして、その冤をすすぐため、京都に出かけて行き、嘆願を試みます。それが、元治元年7月に起こった禁門の変こと蛤御門の変です。長州藩は、家老の福原越後、益田右衛門介、そして、国司信濃という三人の人物が兵を率いて上京します。これは、藩主の軍令状、すなわち、藩の公式命令とも言うべき書付を持って上洛することになりましたので、長州藩の意思として行われたと考えるべきなのです。
面白いことに、福原越後は、当時の藩主・毛利敬親の世子となるため養子として迎えていた毛利定広の実の兄弟であった人物ですから、藩の家老職を継ぎましたけれども、もともとは毛利の血筋正しい一門につながる人でした。こうした人物から久坂玄瑞、あるいは、来島又兵衛といった下級藩士、もしくは、並みの家格の人物に至るまでが、反幕、さらに、薩賊会奸をスローガンにしてコンセンサスを取って上京したのです。
久坂玄瑞は、どんなに若くても、ものを冷静に見ることができた人物で、こうした威力上訴という行為、つまり、京都に行き、力を誇示することによって朝廷や天皇の元に意思を伝えようとすることは剣呑であり、必ず幕府との直接対決を招くと、反対します。
しかしながら、彼らは京都に対して出発します。来島又兵衛、あるいは、久留米の水天宮の神主、宮司であった真木和泉守のような老齢の人物、今日でいえば、もう十二分に老境に達したとされるような人物たちは、むしろ若い青年層の久坂たちに対して、おじけづいたのかと迫ります。「今必要なのは、京都に打って出ることである」と、実際に実力行使もためらわないような発言をしたのは、年を取った人間たちだったのです。このあたりがまた長州藩の面白いところなのですね。
そこで、「こういうことをすれば、朝廷に対して、弓、あるいは、鉄砲を向けることになるだろう。そういうことはできないのではないか」と久坂たちが言います。これに対し、真木和泉は、「形は足利尊氏であっても、心が楠木正成であれば...