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DATE/ 2018.09.10

百人一首の歴史上、ベストの歌とは?

 日本人なら誰でも知っているといって間違いのない「百人一首」。それぞれにごひいきの歌があることと思います。たとえば朝日新聞が2014年に行ったアンケートでは1555人のうち525票を集めたのが「田子の浦にうち出でて見れば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ(山辺赤人)」でした。

 では、専門家が選ぶ百人一首のベストオブベストはどんな歌なのでしょう。東京大学大学院人文社会系研究科の渡部泰明教授に、「奇跡的」とまで評価する歌について聞いてみましょう。

「歌の神が降りてきた」奇跡の一首は…

 渡部教授が評価するのは、「技巧的に優れている」という点です。おそらく作者の名前を知っている人は少ないでしょう。皇嘉門院別当すなわち崇徳天皇の皇后になった藤原聖子に仕えた女房で、本名も生没年も不詳です。

 皇嘉門院別当は平安末期の時代の人ですが、古代ベスト歌人100にはおそらく入れず、いいところ200位ぐらいだろうと、渡辺教授は評しています。そんな彼女に「歌の神が降りてきた」ような問題の歌は、次の一首です。

“難波江の 葦のかりねの 一夜ゆゑ 身をつくしてや 恋ひわたるべき”

 大意は「芦の茂る難波の入り江でたった一晩かりそめの枕を交わしただけで、命をかけて恋い慕い続けなければならないのでしょうか」というもの。7番目の勅撰和歌集である『千載和歌集』に選ばれました。詞書は「摂政右大臣の時の家歌合に、旅宿に逢ふ恋といへる心をよめる」とあるので、「旅宿に逢ふ恋」という題で、歌合せの会に出した歌ということが分かります。「旅宿に逢ふ恋」とは、今風にいうと「旅先の行きずりの恋」のことです。

つながりがつながりを生むことばの奇跡

 この歌のどこがそれほど奇跡的なのかというと「縁語」の連なり具合にあります。

 「難波江」は大阪湾のことですが、当時は広々とした湿地帯で、アシがぼうぼうと生い茂る場所でした。難波江といえば「葦」、そして葦といえば蘆刈説話もあるぐらいで、刈った後に残る根っこを示す「刈り根」はすぐに浮かぶ言葉です。この「刈り根」が「かりそめの共寝」と掛詞にできることに作者は気づきました。さらに、葦は節と節の間が短いことから、「よ」という言葉を使えば、それが節と夜の双方を連想させる掛詞にもなります。

 難波江は浅瀬の続く場所ですから、舟の運航のために「澪標(みおつくし)」という水路を示す標識が立っていました。今も大阪市の市章に用いられています。この澪標が言うまでもなく「身を尽くす」に通じていきます。そう考えると、瀬を渡ることは、何かをし続ける「わたる」とも掛けられる。そのように皇嘉門院別当は考えた、いやむしろ言葉と言葉のつながりが、彼女をそこに連れていったのではないかとまで、渡部教授は言います。

ことばの力は1千年の歴史を生きている

 結果として、上の句では「難波江の芦のかりねの一夜」の中に「一夜」がぐっと凝縮され、それが後半で弾けるかのように「身をつくしてや恋ひわたるべき」に向かっていく。澪標を通って、ずっと大阪湾が広がる先には中国大陸があるぐらいですから、広がりは果てしない景観を伴うのです。

 このような言葉のつながりによる技巧は、頭で考えたからといってできるものではない、と渡部教授は言います。たいていの作家や詩人たちが「自分の力量だけでとてもこんなものは書けない」というように、自分の意図を超えていく力が言葉自体にあるということでしょう。

 ちなみに、百人一首で「みをつくし」といえば、別の歌とよく間違えてお手つきをしませんでしたか。

“わびぬれば 今はた同じ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ”

 こちらは皇嘉門院別当よりも200年以上前に生きた元良親王作。不倫が露見したときの歌だと言われています。1千年の歴史を生きる百人一首には、歌の数だけのドラマが今も息づいているようです。
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