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DATE/ 2023.07.05

『言語の本質』が教えてくれるヒトの素晴らしき可能性

 ChatGPTのプロトタイプ公開以来、話題の絶えない生成AI。作文や読書感想文、論文など、瞬く間につくってくれるため、「読み書きできるAI」とも呼ばれています。でも、AIは本当に私たちと言語を交わしているのでしょうか。そもそも動物のなかで人間だけが言語を持つのはなぜなのでしょう。そのような疑問にオノマトペとアブダクション推論という二つの組み合わせで明快に答えてくれるのが『言語の本質』(中公新書)です。

赤ちゃんの言い間違えを集める言語学者

 オノマトペといえば、擬音語・擬態語とすぐに浮かぶのはかなり言語に興味のある人でしょう。ワンワンやよちよち、ニコニコなど、非常に多くのオノマトペがあらゆる場面で日常的に使われていますが、どちらかというと幼児的で、ちゃんとした言葉ではないという扱いを受けることも多いようです。

 そのオノマトペ研究に大学院生の頃から20年来取り組んでいるのが、本書の共著者である秋田喜美先生。現在は、名古屋大学大学院の人文学研究科で准教授として世界のオノマトペ論を研究しつつ、認知言語学や理論言語学を教えています。2022年に発刊された『オノマトペの認知科学』新曜社は、国立国語研究所が主宰する「第1回宮地裕日本語研究基金学術奨励賞」を受賞しました。

 本書では、日本固有のオノマトペだけでなく、韓国語、バスク語、ポーランド語などさまざまな言語のオノマトペを豊富に挙げ、「知らない言語のオノマトペはどう伝わるか」を体感させてくれます。

 いわば“オノマトペ漬け”だった秋田先生が、「記号接地問題」をキーワードに言語と身体の関わりを究明しようと、「ゆる言語学ラジオ」の「JAPAN AKACHAN'S MISTAKE AWARDS(赤ちゃんミステイクアワード)」なども利用してデータ収集や実験を重ねてきた今井むつみ先生(慶應義塾大学環境情報学部教授)と共同研究することで生まれたのが、本書『言語の本質』です。

「オノマトペについて考えていたら、そこからどんどん新たな問いが生まれた」とあるように、疑問にぶつかっては二人の研究者が力をあわせて解消していくうちに、「言語の本質」という大問題に直面した経緯が門外漢にもわかりやすく伝わり、上質のミステリーを読むように、一度開くと最後まで読み通してしまう魅力的な一冊です。

オノマトペというゆたかな世界

 二人の研究者の架け橋となったのが、オノマトペのなかでも幼児の用いるものだったことは、本書を読みやすくしている原因の一つでしょうか。もふもふ、チョキチョキといったオノマトペを誰よりも好むのは幼児であり、その発達の度合いは名作と呼ばれる絵本を見ていくとわかります。

 たとえば0歳用の絵本に『もこ もこもこ』(谷川俊太郎・文/元永定正・絵)があります。1ページに一つのオノマトペで構成されたこの絵本は「しーん もこ もこもこ にょき もこもこもこ にょきにょき……」と続き、最後は再び「しーん」で終わります。

 少し上の幼児を対象にした『しろくまちゃんのほっとけーき』(わかやまけん)では、ホットケーキが焼けていく様子が「ぽたあん どろどろ ぴちぴちぴち ぷつぷつ しゅっ ぺたん ふくふく くんくん ぽいっ」というオノマトペで表されます。

「子どもはなぜオノマトペが好きなのか」という誰もが当たり前だと思っている事実を手掛かりに、著者たちは「オノマトペは言語のミニワールドである」「オノマトペが子どもに言語の大局観を教える」という発見を導き出していきます。ここから著者たちの目的は、「言語の進化」すなわちなぜ人は言葉を持つのか、人と動物やAIの言語の違いは、といった言語の本質に向かわざるをえなくなるのです。

アブダクション推論とヘレン・ケラー

 一般的な子どもの言語発達を、ほぼ一夜で劇的に成し遂げたのが、あのヘレン・ケラーです。手のひらに冷たい水を受けているときにサリバン先生が“water”と指文字で綴ったとたん、手のひらに流れる冷たい液体の名前を指文字が表していると啓示を受けたシーンを記憶している方は多いと思います。

 これは、「“water”が水を表す文字である」という以上に、「すべてのモノには名前がある」という気づきでした。人の持つ視覚や触覚と音の間に類似性を見つけ、自然に対応づける「音象徴能力」は言語習得の第一歩であり、その気づきが、すべてのモノや行為の名前を覚えようとする「語彙爆発」につながります。

 ヘレン・ケラーは視覚・聴覚を失い、触覚だけでこのことを類推しました。それ以前からサリバン先生が根気よく、彼女の手のひらに指文字を書きつけていたという経験がみな「同じだった」ことを理解したわけです。このように離れた出来事の間の類似性を見つけ(類推)、新しい知識となる仮説を形成するのが「アブダクション推論」と呼ばれる能力です。アブダクションは、アナログな経験をデジタルな記号に接続するための力ともいえそうです。

AIの答えがしっくりこない理由とヒトとしての可能性

 ヒトだけにアブダクション推論の力が発達してきたことを、筆者たちは人類の進化と結びつけて語ります。アブダクションは新しい仮説を生むためのものなので、結論が正しい場合も間違っている場合もある。そのような考え方は、ヒトが居住地を全世界に広げ、多様な場所に生息するようになるために不可欠だったということです。一方、生息地が限定的なチンパンジーなどには、「間違うかもしれないけれど、そこそこうまくいく」思考はそれほど必要がなく、誤りを犯すリスクの少ない演繹推論のほうが生存に有利だったのかもしれない、と本書は結論づけています。

 また、AIの言語とヒトの言語の違いを分けるのが、今井先生が考えてきた「記号接地」問題です。これは、1990年代のAI研究から生まれた言葉で、「コンピュータ内部で使われる記号と実世界の実体のもつ意味と結びつけられるか」を問題としています。つまり、身体のないコンピュータに言語理解が本当に可能なのかどうかを問うものなのですが、逆から見ると、一人ひとりの人間の言語的成長と、人類全体の言語進化に関係する問題になっています。

 どの国の言語も巨大なシステムを持っていて、子どもたちは母語を習熟するために大変な学習を行っています。その成長に役立つのがオノマトペだと言いましたが、「ぎょぎょっ」や「どーん」「しとしと」というオノマトペの多くは身振り手振りを伴って子どもの理解を助けていきます。「音と意味」の間のつながりを強化するのが、身振りを伴うオノマトペの役割といえるでしょう。

 身体感覚や経験につながることなく、システムのなかの記号同士を操作するAIには、記号接地がありません。AIの学習とは、ことばや数字という記号それぞれの「意味」を本質的に理解せず、記号の中を漂流することで行われるものなのです。

 オノマトペは身体感覚と言語能力の間を結び、アブダクションは言語のシステム性を仮想し、現状では欠けているものを発見するためのものといえるでしょう。動物やAIになくて、ヒトだけが持っているのが、その二つといえそうです。

 どれほど進化しようと、生成AIはあくまで道具で、それを使いこなす叡智は人間(ヒト)にこそ備わっている。本書はそのことを伝える貴重な一冊です。読み進めるうちにヒトとしての素晴らしき可能性を存分に実感できること必至です。

<参考文献>
『言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか』(今井むつみ・秋田喜美著、中公新書)
https://www.chuko.co.jp/shinsho/2023/05/102756.html

<参考サイト>
秋田 喜美先生のホームページ
https://sites.google.com/site/akitambo/jpn

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