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DATE/ 2024.10.15

『ハマスの実像』で深めるパレスチナ問題への理解

 パレスチナ自治区ガザを拠点とするイスラム組織「ハマス」は、2023年10月7日、イスラエルに対して大規模な攻撃を仕掛けました。この攻撃により、イスラエル政府の発表によると約1200人が死亡しました。この攻撃は、イスラエルとパレスチナの対立をより激化させ、イスラエルのネタニヤフ首相は「ハマス殲滅」を掲げ、正式に「宣戦布告」を行いました。イスラエル軍はガザ地区への激しい空爆を開始し、同年10月下旬からは地上戦も展開されました。ガザ地区での戦闘によりパレスチナ側の死者は約3万7000人に達しており(2024年6月時点)、今もなお犠牲者は増え続けています。

 ハマスは「テロ組織」として多くの国々から非難を浴びている一方で、ガザ地区の政治・社会において重要な役割を担う勢力でもあります。しかし、私たちの多くは「テロ組織」というイメージにとらわれ、その実態や背景について深く理解しているとは言い難いのが現状です。外から見るだけでは、ハマスがどのように地域社会に根ざし、どのようにして支持を得ているのか、その全貌は見えにくいものです。

 今回ご紹介する書籍『ハマスの実像』(川上泰徳著、集英社新書)では、長年中東を取材してきたジャーナリストが、ハマスの武装組織としての側面だけでなく、その内部構造や実態にまで踏み込み、外からでは把握しにくい「ハマスの実像」を浮き彫りにしています。ハマスがなぜガザ地区の住民から支持を受け、どのようにして影響力を行使しているのかを理解するための手助けとなる一冊です。

中東を30年以上取材してきたジャーナリストが伝える現地のリアル

 本書の著者である川上泰徳氏は、1956年生まれのジャーナリストで、元朝日新聞記者・編集委員として長年にわたり中東を取材してきた人物です。カイロ、エルサレム、バグダッドなどに特派員として駐在し、パレスチナ問題やイラク戦争、「アラブの春」といった中東の主要な出来事を現地で取材してきました。2002年には、中東報道でボーン・上田記念国際記者賞を受賞しています。

 2015年に朝日新聞を退職後、川上氏はフリーランスのジャーナリストとして活動を続けており、中東に関するさまざまな書籍や記事を執筆しています。代表的な著書には、『シャティーラの記憶 パレスチナ難民キャンプの70年』(岩波書店)、『「イスラム国」はテロの元凶ではない』(集英社新書)、『中東の現場を歩く』などがあります。

現地のハマスは慈善組織!?――ハマスを理解するための三つの側面

「ハマス」はパレスチナのイスラム組織「ムスリム同胞団」に起源を持ち、1987年のインティファーダ(パレスチナ人の民衆蜂起)をきっかけとして結成されました。「ハマス」とは、「イスラム抵抗運動」の単語の頭文字3文字であり、アラビア語で「熱情」を意味します。

 当初は、イスラエルによる占領に対する抵抗運動として武装闘争を開始しましたが、ハマスの実態は単なる武装組織だけではありません。ハマスには、1:イスラム的な社会事業を行う系列の社会組織、2:ハマスの立場を外に向けて説明する政治部門、3:イスラエルの占領に対する武装闘争を行う軍事部門、の三つの顔があります。川上氏は、どれか一つだけでハマスを見ることも論じることもできないと言います。

 意外に感じるかもしれませんが、ハマスの普段の顔は社会慈善組織です。本書では、ガザ地区の人々への食料、教育、医療支援の具体的な例が数多く紹介されています。例えば、ハマス系の社会組織であるサラーハ協会が運営する病院やコンピュータ教室がその一例です。

 1994年、川上氏は自治区南端のラファ市郊外にあるモスクに併設された診療所を取材しました。医師によると、この病院は慈善活動を目的としており、診察料や薬代は非常に安価で、支払えない人には、自身のモスクの指導者(イマーム)の署名入りの紙を持参すれば無料で診察を受けられるということです。実際、患者の2~3割は無料で診察を受けているそうです。医療機器やスタッフの給料も、全てサラーハ協会から提供されています。

 さらに、川上氏が診療所を取材した後に訪れたサラーハ協会本部では、協会が主催するコンピュータ教室が開かれていました。父親に勧められて通っているという高校生の兄弟は、「何をするにしても、これからはコンピュータが必要だ」と語り、不慣れな手つきでキーボードを打っていました。そこには、イスラム過激派やテロ組織のイメージは一切感じられません。

ハマスという見えにくい存在を見るために

 川上氏は、自ら現地に足を運び、取材を通じて、現地の人々の視点を私たちに伝えてくれます。それは、日本を含む西側諸国のメディアではあまり取り上げられない視点です。

 私たちが日常的に接する報道では、ハマスは「反イスラエル」のイスラム過激派組織であり、イスラエル国内で「テロ」を行い、それに対してイスラエルが「対テロ戦争」を行っているという図式が一般的です。しかし、イスラエルによるガザへの攻撃は、その規模を見ても過剰だと言わざるを得ません。2023年10月7日のハマスの越境攻撃を契機に始まった報復攻撃で、翌年6月までにガザ地区での死者は3万7000人を超え、そのうち子どもの死者は1万5000人以上に達しています。

 メディアでは、イスラエルの「自衛の戦争」として報じられることが多いものの、その報道では、8ヶ月間でパレスチナの子ども1万5000人を殺害した暴力の主体が見えにくくなっています。また、イスラエルが国家として半世紀以上にわたりパレスチナを軍事占領しているという、暴力の根源についても言及されることはほとんどありません。

 イスラエルの大規模な報復が予想されていたにもかかわらず、なぜハマスは越境攻撃を敢行したのでしょうか。それを理解するには、ガザがイスラエルの占領と封鎖の下でどのような状況に置かれているかを考慮する必要があります。ガザは「天井のない監獄」とも呼ばれ、その閉塞感が住民を圧迫しています。その中で、「殉教こそが希望だ」と考えるハマスの戦闘員が生まれてくるのです。

 本書は、「ハマスという日本人にとっては見えにくい存在、日本人が見ないようにしてきた存在をジャーナリズムの視点から、その実像に光を当てようとしたもの」です。ハマスについて知りたいすべての人に、必読といえる一冊です。ぜひ書店で見かけたら、手に取ってみてください。見えにくいからこそ見過ごされてきたパレスチナ問題への理解が深まるはずです。

<参考文献>
『ハマスの実像』(川上泰徳著、集英社新書)
https://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/1226-a/

<参考サイト>
川上泰徳氏のX(旧Twitter)
https://x.com/kawakami_yasu
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