●1942年に始まった戦後対策と「対日占領政策」
(ミッドウェー海戦大勝利)の勢いで、アメリカは「戦える」という感触を得ますが、それ以前から「対日占領政策」の検討を開始していたというから驚きます。
それは、第一次世界大戦からわずか20年で世界大戦を招いた原因が、戦後計画の不十分な講和にあったのではないかとの考えがあったからです。第一次大戦ではドイツに対して非常に高額な賠償金が要求され、その結果ドイツが反目したことが分かっています。それゆえ、「二度と戦争のない世界を構築したい」とアメリカは考えていたのです。
1942年2月、ハル国務長官を長として「戦後対策に関する諮問委員会(advisory committee on post-war foreign policy)」が開設されます。それまでの組織を統合し、民間から大量の専門家を糾合した組織でした。日本が戦勝気分で浮かれ返っていた頃です。
同年夏には、「極東班(far eastern group」」という専門家グループができます。そこに、日本語はできないもののアジア問題の大専門家であったジョージ・ブレイクスリーと、日本史の専門家のヒュー・ボートンの二人を専門家として招き、対日占領政策の立案を推進しようということになりました。
●「ハード・ピースか、ソフト・ピースか」の問題
当時、アメリカの世論で圧倒的だったのは「日本はけしからんから、粉々にして無条件降伏をさせろ。徹底的に破壊して、アメリカの手でつくり変えろ」という声で、実はフランクリン・ルーズベルト大統領自身が、そのように考えていたのです。
極東班が作業を開始した頃は、「ハード・ピースか、ソフト・ピースか」の二つの考え方がありました。ハード・ピースの考え方は処罰的平和で、「枢軸国をたたきつぶして、無条件に降伏させろ」というものです。ソフト・ピースの方は、その前に書かれた大西洋憲章に基づいて「もっと普遍的な人類的見地が必要だろう」とするもので、これが知日家たちの立場でした。いろいろな議論がある中、知日家の人たちは「アメリカにとって好ましい日本を再建する上では、天皇制が実は非常に貴重な財産だ」と指摘し、「戦後には、日本人自身が民主化改革できる」とも主張しました。
特に日本に詳しかったボートンは22ページのリポートを書きますが、その中には、ロンドン軍縮以来の穏健派の政治家は誰がいるか、彼らにはどんな役割が可能かなどが記されました。例えば、若槻禮次郎はその一人です。
一般のアメリカ人にそうした知識はなく、国土全体に「日本などは叩きつぶして直接統治しろ」との声が高まる中、「いや、やはり違うのではないか」という議論が、ギリギリの評価として残ったとされています。
●PWCの知日派による「対日占領政策」の原型とは
これはもう戦争の最後の方になりますが、1944年ハル長官の主宰する国務省幹部による「戦後計画委員会(Committee on Post-war Programs:PWC)」という重要な会議が開かれ、知日派のつくったプランが集中的に検討されました。ここから、「対日占領政策」の原型がつくり上げられたのです。
良識派による原案は、「6カ月程度の軽い占領」「日本国民が望むなら天皇制を残し、なるべく天皇と日本政府を用いて占領を行う」というものでした。
これに対して、国務省の幹部からは「甘いぞ」という声が上がります。「日本の統治機構そのものが侵略戦争を起こしたのだ。これは、システムとしても有罪である」「軍事機構も内閣も全部廃止しろ」「占領軍が最高権力を掌握して、日本政府は廃止し、直接統治をするべきだ」という声で、これはルーズベルトもそう考えていたことです。
ところが、知日派の人たちはブレイクスリー博士を中心として「米国の対日戦後目的」というリポートを記し、その中で「日本に民主化への自主的努力をさせて、国際復帰を促進させる」ことを提案しました。しかし、ハル長官をはじめ誰もこれを受け入れず、「とんでもない」「もう一度出せ」と、全て差し戻されました。
●強硬な主流派の意見をかわし、土俵際で粘った知日派
彼らは中身を変えたくないので、3回に分けて時間を稼ごうとします。しかし、「日本の主要機関は全面的に廃止」という議論が強く、勝ちを収めます。ところが、知日派は土俵際で頑張るのです。
「最高権力を掌握するのは分かったが、下部の行政機関はどうするのか?」と切り出しました。例えば、青森県や福井県などで何をするのか。「そこもアメリカが直接統治するのか」と言うわけです。「下部機関を存続しないと、それはできないのではないか」と知日派の人々は問いました。「日本は野蛮国ではなく、工業化された近代社会だ。もし直接統治するならば、少なくとも日本語を駆使できる軍政要員が50万人はいないと、全県の統治はできない」と言うの...