●ウィルキーとBSCの関係は浅からぬものがあった
中西 BSC(ブリティッシュ・セキュリティー・コーディネーション)の工作の結果、驚いたことに、ウェンデル・ウィルキーという無名の人が共和党候補になるのです。ウィルキーはそれまでは民主党員でした。ところが1940年の党大会で、いきなり共和党の大統領候補になってしまうわけです。ここに至る過程で、イギリス情報部が絡んだ工作の結果、買収されたのだろうと言われています。
もちろん工作の跡ははっきりとは残っていません。しかし、ウィルキーという大変良い人物がいると、ヘラルド・トリビューンの前身であるニューヨーク・トリビューン紙のような有名な新聞が、いきなりウィルキー礼賛の記事を毎日のように出すわけです。ウィルキーの支持率は見る間に伸びていきました。支持率といっても、誰かが操作している世論調査です。そうした工作も全てイギリス情報部が後ろでやったと言われています。最近では、アメリカの歴史家が客観的に調べた研究書まで出ていますので、大筋で間違いないと思います。
そういう工作をした挙句、ウィルキーが共和党候補になりました。ところがウィルキーは、あるときには選挙演説中に、ヨーロッパの戦争に賛成して、人類の自由を救わなければならないと、突然口走ったのです。聞いていた人はびっくりしたでしょう。参戦を主張するフランクリン・ルーズベルトの対立候補だからこそ、共和党を選ぼうと思っていたのに、選べなくなってしまったのです。
ルーズベルト政権が発足し、第二次世界大戦が2年目に突入した時、ウィルキーは大統領の補佐官のような地位に就きます。そして世界中を回って、ルーズベルト政権の外交の宣伝マンになってしまったのです。ウィルキーという人は、このように非常に奇妙な人物です。
彼はもともと大のイギリスびいきでした。したがって、ハードエビデンスはまだ見つかってはいませんが、ウィルキーとBSCの関係は浅からぬものがあったのでしょう。このように、イギリスはあらゆる手段を使って、何とかぎりぎりルーズベルトの3選を可能にしました。これが1940年11月です。
●危急存亡のときにこそ、情報活動は工作を伴う
中西 そこからは一瀉千里(いっしゃせんり)です。1940年の秋には日独伊三国同盟が結ばれます。そうなれば日本は、本当に側杖です。アメリカはヨーロッパの戦争に参戦したいけれども、アドルフ・ヒットラーはなかなかアメリカの挑発に乗ってきません。したがって、裏口から参戦するよりほかにありません。つまり日本を挑発して、日米戦争に持ち込んだのです。三国同盟を結んでいるドイツにも米独戦争を挑みます。そうすればヒットラーは受けて立つだろうという戦略でした。
3選目の大統領に就任後、ルーズベルトはレンドリース法(武器貸与法)を制定し、とにかく無償でイギリスにどんどん武器を送るようになります。徴兵制も導入されました。
つまり、あの大統領選挙が非常に大きな世界史の峠を意味したということです。このような危急存亡のときにこそ、情報活動は工作を伴うのです。外国の民主主義国同士が生きるか死ぬかの瀬戸際になると、ここまでのことをするのかという、すごさを学ぶ必要があるでしょう。
●中国やロシアでは、工作をするために情報を集める
中西 中国やロシアのような国では、もともと情報は工作に使うために集めるものです。情報と政治工作や秘密工作は、全く一体だと考える伝統があります。われわれ自由主義の国は、情報はまず、世界を知るために集めます。ところが中国やロシアでは、使えるかどうかは別として、工作をするために情報を集めるのです。
われわれ民主主義の国が今、どのような脅威に直面しているのかを考える必要があるでしょう。もちろん恐れ過ぎてはいけませんが、やはり正常なセキュリティー意識は持っておくべきです。
イギリスとアメリカの関係に話を戻せば、結果的に日本の歴史も大きく狂わせてしまいました。真珠湾を攻撃せざるを得なくなって、大きな世界史の渦に巻き込まれてしまったからです。
質問 新聞社の買収、暗殺、そして共和党候補者をすげ替えるまで、イギリスにはそこまでの底力があったのですね。
中西 あるということです。ただしそれは、第一次世界大戦から同じパターンで、何度も失敗してきたからです。実際、結局アメリカを参戦させるのに3年もかかってしまいました。その反省から、第二次世界大戦でイギリスは水際立っていました。しかし、それでも日本が真珠湾攻撃をしなかったら、ルーズベルトがあれほどすんなりとヨーロッパに参戦できたかどうかは分かりません。それほど、アメリカのいわゆる孤立主義の世論が強かったということでもありますが。
イギリスに限らず、どこの国でも外国の中に手を突っ込ん...