●高校日本史で教えられてきた縄文時代のイメージはもう古い?
皆さん、こんにちは。国立歴史民俗博物館、また総合研究大学院大学の山田康弘といいます。よろしくお願いします。本日は縄文時代全般にわたっての概説ということでお話をさせていただきたいと思います。
皆さんは縄文時代というと、どのようなイメージを持つでしょうか。例えば、現在の高校生の教科書などには、次のように書かれています。
今からおよそ1万2000年前から2300年ほど前の時期である。また、現在とほぼ同じ自然環境である。さらには、食料採取の経済段階であった。縄文土器を使用していた。基本的には20人から30人程度の集団で生活をしていた。黒曜石やヒスイといった物資を用いた遠隔地交易など、さまざまな形で情報交換をしていた。さらに特徴的な点として、統率者や村長(むらおさ)などのリーダーはいたが、身分の上下関係や、大きな貧富の格差はなかった。
しかし、最新の研究成果によって、これまでの縄文時代やその文化のイメージが徐々に変化してきていると、われわれ考古学研究者は捉えています。
●土器や漆器から見る縄文時代の生活に関する新発見
それでは、具体的にどのようにイメージが変わってきたのでしょうか。まず1点目は、縄文時代の時間幅です。先ほどの教科書では、およそ1万2000年前から縄文時代が始まるとされていました。
現在最も古い土器とされているものは、青森県の大平山元(おおだいやまもと)I遺跡から出土しました。これに炭素14年代測定法を用いると、最も古いものがおよそ1万6500年前、それ以外のものもおよそ1万5000年前のものであるという結果が得られました。つまり、現在日本で出土している最も古い土器は、およそ1万6000年前に作られたのではないかということが最近分かったのです。
ところが、およそ1万6000年前となると、例えば気候の変化に関するわれわれの認識が変わってきます。これまでの認識では、縄文時代の開始前には氷期(以前の氷河期)が終わりを告げ、徐々に暖かくなってくるという時期に、土器が出てくると考えられてきました。この認識とは実際は少し異なる年代から土器が出現していたのではないかということが、最近の研究で分かってきたのです。これに関しては、後でもう少し詳しくお話しします。
さらに、例えば東京都東村山市の下宅部(しもやけべ)遺跡から、最近かなりの量の焦げたアズキが土器の中から発見されました。また、土器そのものの内側、あるいは外側にも、豆の圧痕が付いていることが確認されました。こうした土器が、東日本を中心に頻繁に見つかっています。これらの物証から、縄文時代にもダイズやアズキなどの栽培が行われていたのではないか、と考えられ始めました。一部の研究者はこれを「農耕」と呼んでいます。
それから、縄文時代には多くの漆塗製品が作られていたことが分かってきました。これも日本全国からそうした証拠が出てきています。ご存じの方もいらっしゃるかと思いますが、漆は樹液を用いて塗り物にします。
ただ、1本の木から採れる樹液の量は、1回につき1ccから3cc程度と非常に少ないのです。しかも塗料として使えるようにするには、約40度で長時間煮込んで、精製する必要があります。こうしたことを鑑みると、気まぐれに「今日は漆でも作ってみるか」と考えて、パートタイマーとしてそうした作業に従事していたわけではないことも、最近分かってきました。つまり、縄文時代に漆塗のスペシャリスト、専業者がいたということです。これは、今までの縄文時代のイメージとは、大きく異なります。
●木材の管理や利用からも高いレベルの縄文文化が垣間見える
それから、クリ(栗)に関しても新たな発見がありました。縄文時代には、クリは大変重要な植物でした。もちろん食べ物としても使えますが、より重要であったのは建築材、木材としての用途です。例えば、青森県の三内丸山遺跡では、直径が1メートル以上もある大きなクリを用いて、大きな建物を建てていたことが分かっています。
ところが、クリが約1メートルの太さになるには、およそ200年から250年かかるといわれています。出土人骨から考えると、当時の縄文時代の人々の寿命はおよそ50年と考えられています。だとすると、とても1世代、2世代では育てることができないような太いクリを、建築材として用いているということです。つまり、彼らは必要なときに使えるように、クリ林を作って管理をしていたのです。最近分かってきた、こうした事実も、単純な...