●東北北部の方が中部地方・関東南部地方より水田稲作の開始は早かった
ここから第3章「金属器の登場」に入ります。これまでお話しした弥生時代は、金属器がなく石器だけの時代でした。今から50年ほど前の教科書には、弥生人は水田稲作を行い、最初から鉄器を利用していたと書かれていたかと思います。しかし、水田稲作の始まりが約500年さかのぼった結果、金属器を伴わないコメ作りの生活の存在が明らかになってきました。
金属器の話に入る前に、東北地方北部の水田稲作についてお話しします。先ほど日本で最も遅く水田稲作が始まった中部地方・関東地方のお話しをしましたが、そうすると東北北部の方が水田稲作の開始が早かったということになります。普通、より寒い東北地方の方が水田稲作の開始は遅れると考えがちですが、実は東北地方の日本海側では中部地方・関東地方南部に先んじて紀元前4世紀に水田稲作が始まったことが分かっています。
●世界最北端の砂沢遺跡から分かる東北北部の水田稲作の特徴
青森県弘前市の砂沢遺跡で、紀元前4世紀の水田跡が見つかりました。これは先史時代の遺跡としては、北緯40度を超える世界最北端の水田跡です。右側に見つかった水田の写真があります。手前が高く奥が低い、つまり手前から奥に向かって傾斜しているという構造です。ここから7区画の水田跡が見つかりました。
ただし、これらの水田は先ほどから説明しているような灌漑施設は持っておらず、傾斜を利用して手前から奥へと水を流していたとされています。この青森の水田跡の特徴は、もともと縄文人が住んでいたむらのすぐそばに造ったという点です。
先ほど福岡平野の例で説明しましたが、縄文人が利用していなかった場所に突然、水田が現れることが多いのです。西日本、たとえば近畿、あるいは関東南部ではそうした傾向が見られますが、青森だけはもともと縄文人が住んでいた領域内に水田が出現します。この事実は、誰が水田稲作を始めたのかという問題と大きく関わってきます。
他にも大きな特徴として、この砂沢遺跡は10年から12年という比較的短い期間しかコメを作っていないことが分かっています。また、西日本で水田稲作を行う遺跡でよく発見される木製農具や、朝鮮半島系の伐採用の斧などの、大陸的な道具や要素が、一切見られないのも特徴です。むしろ、縄文人がずっと使ってきた剥片石器や、縄文系の伐採用の斧を使い続けています。つまり、縄文時代から自分たちが使い慣れた道具や施設では代用できないもの、すなわち水田のみ受け入れ、それ以外はすべて、縄文文化由来のものを使い続けているという特徴を持つのです。これも、水田が造られている土地の位置に加えて、大きな特徴として挙げられます。
左側のイラストでは、むらのすぐ横に水田があります。もともと住んでいた領域に水田を造っているということです。さらに、特に寒くなったわけでも、災害に襲われたわけでもないのに、10年程度で稲作をやめているのです。西日本の弥生人は、一度水田稲作を始めると決してやめなかったのに対して、砂沢遺跡ではやめてしまうという特徴があるのです。
この写真は、われわれの博物館(国立歴史民俗博物館)で展示している砂沢遺跡で見つかった土器の一種です。先ほど申し上げた前3世紀の中部地方における土偶や石棒を用いたまつりが、この砂沢遺跡でも行われています。中部地方ではアワやキビの栽培と、土偶と石棒を用いたまつりという組み合わせでしたが、砂沢遺跡では水田稲作と土偶と石棒の組み合わせです。
西日本では、水田稲作に土偶と石棒は伴いませんが、唯一東北地方では水田稲作に土偶と石棒が伴うという珍しい特徴を持っています。水田を造った場所や、縄文時代の道具やまつりが変わらないという点に、東北北部の水田稲作民の特徴が表れています。
●水田稲作と同様に金属器も朝鮮半島から九州北部に伝来
日本における金属器の出現に移ります。最初に弥生人が目にした金属器は、鉄器ではなく青銅器でした。最も古い青銅器は、紀元前8世紀の福岡県今川遺跡で見つかりました。これが、左側にある図面です。図面を見ると矢じりに似た形をしていますが、真ん中の写真にある銅剣の破片を再利用して作ったものです。中国遼寧地方に起源をもつ遼寧式銅剣とよばれているものです。このような銅剣は、紀元前8世紀以降の九州北部に出てきますが、完全な形を残したままの銅剣は、日本ではまだ1本も見つかっていません。このような破片の形でしか見つかっていないのです。
しかし、この銅剣を実際に見たことがないと作ることができないような木製の剣は紀元前6世紀ご...