●年下のモーツァルトを大尊敬したハイドン
――前回は、ハイドンが交響曲の父ということでしたけれども、ハイドンと来れば、やはりモーツァルトのお話も、ぜひおうかがいできればというところになりますが。
野本 そうですね。ハイドンは1732年生まれで、まだバッハが生きている頃の人でした。バッハが亡くなるのは1750年、18世紀のちょうど真ん中です。ハイドンはバッハに重なるように生きましたが、モーツァルトは1756年とバッハが亡くなってから生まれているので、もちろん会うことはできませんでした。
そして、ハイドンとモーツァルトはほぼ親子ぐらい年齢が離れているんですが、大親友だったんですね。しかも年上のハイドンのほうがモーツァルトのことを大尊敬していたという関係で、非常に仲がよかった。モーツァルトは晩年フリーメイソンに入会しますけど、そのとき一緒に入ろうと誘って、ハイドンを入会させているぐらいです。お互いに信用できる人でなかったらそこまではいかないでしょうから、かなり仲がいいですよね。
――ハイドンが交響曲の父ということで100曲以上つくっているわけですが、モーツァルトの音楽にはどのような特色や特徴があるんでしょうか。
野本 実はモーツァルトは、ハイドンよりも後でありながら、交響曲にはそんなには関心はなかったんです。モーツァルトがもっぱら関心があったのはオペラ、歌劇のほうだったんですね。モーツァルトの人生は35年弱ぐらいなんですけれども、1732年生まれのハイドンは19世紀まで生きますので、完全にモーツァルトの人生を包含しています。人生やっぱり長生きしたほうがいいということではあるのですが。
ただ、モーツァルトはデビューしたのが5歳のときなので、早く死んでしまったわりに音楽家生活は30年近くあります。そのなかでオペラは30曲ぐらいですから、非常に熱心にオペラを作曲していたわけです。交響曲については、モーツァルトは「娯楽音楽」というとらえ方をしていたようなんですね。
●父への手紙が語るモーツァルトの交響曲軽視
――一般のイメージだと、オペラと交響曲ではオペラのほうが「娯楽」で、交響曲は「やや、まじめ」な印象がありますけど、モーツァルトにとっては違うわけですね。
野本 モーツァルトにとっては違っていたんです。交響曲がまじめな音楽であるとしてしまったのは、ベートーヴェンの責任なんですけれども、そこにいく前のモーツァルトは違います。いかに交響曲を重要視しなかったかが、父親であるレオポルドあての手紙を見ると分かります。
モーツァルトの父は、当時ヨーロッパでも有名なヴァイオリン奏者で、ヴァイオリン教育家でもあった人でした。いわゆるステージ・パパみたいな感じで、モーツァルトは常に父の許可を得ないと何事もできないような生活でした。そして、モーツァルトの楽譜はこの父親が管理していたわけです。
手紙が残っているのですが、「お父さん、オペラとかピアノ協奏曲の楽譜は誰にも見せないで。誰かが盗んで書かないように、徹底的に管理して。でも、交響曲は別に見せてもかまいません」と書いているんですね。1回演奏した交響曲は、なかなか2度と演奏することはないでしょうというくらいにしか思っていなかったということです。
――当時は、ハイドンも100曲以上書いていますけど、ある意味では、交響曲については1回演奏したらもう終わりと思っていたのですか。
野本 そうなんです。ハイドンやモーツァルトの頃というのは、作曲した音楽は、1回演奏したらもう終わり。これはバッハやヴィヴァルディの頃からそうでした。言ってみれば「使い捨て」するのが音楽だったんですね。使い捨てだからこそ、次々に作曲していかなくちゃいけない。しかも作曲家というのは、たとえばバッハやヴィヴァルディでしたら教会に勤めていますし、ハイドンは貴族の家に勤めているんです。エステルハージ侯という貴族のところに勤めている。
――いわゆるお抱え音楽士ですね。
野本 そうです。モーツァルトもお抱え音楽士になろうと思って、いろいろ就職活動したけど全滅。いわば就活に失敗してしまうんですが、なんとかウィーンの宮廷で作曲はさせてもらえるようになっていた。つまり彼らはサラリーマンなんですね。サラリーマンですから、次々に曲を頼まれ、次々に書いていった。使い捨ての作品を次々生んでいったほうが、1回書いてお払い箱になるよりは、もちろんそのほうがいい。つまり、作曲家は職人扱いだったわけです。
●「消え物」をつくる職人だった宮廷音楽家
野本 モーツァルトもやっぱり職人だったわけですが、ものづくりの職人なわけですね。
――日本的な意味での、ものづくりの職人に近い位置づけということですね。
野本 そうなんです。近いどころか、完全にものづくりの職人です。宮廷の中...