●朝鮮半島からの鉄の入手ルートが近畿へ移ったことで古墳時代の成立を説明する議論は考古学的事実に合致しない
それでは、最後の講義、第6章「古墳時代への胎動」に移ります。古墳成立前夜のお話です。
これまで古墳時代に至るまでの過程はどのように説明されてきたかというと、主に鉄と墓から説明されてきました。簡単にいうと、弥生時代の中・後期には九州北部地方の人々が圧倒的に多量の鉄を掌握していました。
ところが、ある時、近畿と瀬戸内の連合体が九州北部と戦いました。これは、当時最大の戦乱であり、「倭国大乱」と呼ばれます。これを契機に、鉄が東に集中するようになり、倭国の政治的権力が西から東に移ります。そして、その東の集団が古墳成立の母体となった、と説明されてきたのです。
しかし、先ほど比恵・那珂遺跡に関して述べたように、九州北部の鉄の量は尋常ではありませんでした。これは倭国乱後も変わりません。つまり、鉄の中心が西から東に移るという現象は、観察されていないのです。戦乱前と同様に、九州北部の鉄の保有量は圧倒的で、鉄をめぐる優位性は変わっていません。ですので、上の説明は現実に即していません。
この図面は、その優位性を示しています。九州・中国地方の集落から出てきた鉄器の量を示したものです。このなかでも最も重要な鉄器は、先ほど説明した土木用の鉄器です。鍬や鋤の先に取り付けて土を掘る、「鉄刃(てつじん)農具」と呼ばれるものです。
福岡県では、竪穴住居の大きさにかかわらず、基本的にどの住居からもこの鉄刃農具が出土します。九州中部の熊本辺りでも多くの鉄器が見つかっていますが、大きな住居からしか鉄刃農具が出てきません。さらに、岡山では集落全体で1、2点ほどしか出土しません。近畿ではほとんど出土例がありません。ここからも分かる通り、九州北部の鉄の優位性は倭国大乱後も変わらないので、これまでの説明は現在では分が悪くなってしまいました。
●西から東に比重が移ったものは実は鏡などの「威信財」だった
それに対して、明らかに分布の中心が西から東に移るものがあります。それは、鏡です。鉄は、武器であり農耕具であり、すなわち利器、実用品です。一方、鏡や玉は、それを持っているからといって戦いに勝てるわけではなく、土地の開発が進むわけでもありません。ただ、それを持っていることによって、自分の威信が高まります。その意味で、「威信財」と呼ばれています。この威信財の中心は、西から東に移る傾向が見られています。
その移動を示しているのがこちらの図です。これは紀元前1世紀から紀元後の2世紀まで、中国で作られた鏡がどのような状況で日本の遺跡から出土するかを示したものです。一番上の図は、奴国王や伊都国王の時期です。1人で30数枚の鏡を持っている人々が存在しました。紀元前1世紀の初めの頃に作られた前漢の鏡は、九州北部で非常に高い頻度で見つかっていることが分かります。
次の段階になると、紀元前後に作られた鏡は、九州北部の弥生時代の遺跡からも大量に副葬品として出土していますが、近畿地方では、古墳時代になって古墳の副葬品として見つかるようになります。九州北部では弥生時代にもらったものは、もらった人の墓にすぐに副葬するのですが、近畿ではそれが200年から250年後に造られた古墳から出てくるようになります。つまり、近畿では副葬されるまでどこかで保管されていたのです。
近畿で出土する割合は、漢鏡6期、7期と後の年代になるにしたがって大きくなっていきます。最終的には、近畿地方から出てくる鏡の量は、他の地方のそれを圧倒するようになっていきます。
このように、威信財と呼ばれているものは、確実に西から東に中心が移っています。しかも、倭国大乱よりもずっと前の紀元前後からそうした傾向が見られます。鉄という利器の中心は変わらないのに、鏡という威信財の中心は移るという現象を、どのように考えたらよいのでしょうか。
この点に関しては、はっきりとした答えはまだ出ていません。ただ、次のような仮説が存在します。卑弥呼が登場すると、三角縁神獣鏡という魏の鏡が大きな役割を持つようになり、全国の首長たちに配られるようになります。つまり、当時の倭国の大部分の地域では、鏡を持つことが自分の地位の高さを示す威信財として、非常に高く位置付けられていた、という段階にありました。
しかし、九州北部の王たちの間では、そうした段階は紀元前後にはすでに終わっており、より実用的な利器に価値を見いだすという段階に入っていたのではないかと考えられます。つまり、当時の九州北部地方と近畿地...