●宗教とは関係のないオペラという新たなジャンルの登場
バッハの音楽には、これまでにお話ししたような宗教音楽もありますが、それだけではありません。もちろん教会音楽は綿々として続いていますが、17~18世紀には、ヨーロッパ全体で見ると、新しいジャンルが起こっていました。楽器の音楽である「器楽」が非常に盛んになっていたのです。器楽は新しいわけではなくて昔からありますが、マイナーな音楽でした。特にイタリアを中心に素晴らしいヴァイオリンができ、名人も出てきて、そして、その楽器を使った素晴らしい曲を書くヴィヴァルディのような人が出てきました。そうした新しい動きがあったのです。
そして、オペラが始まります。これは最大のイベント音楽ですね。とにかくお金があることを誇示するための音楽で、宗教音楽とは完全に別の世界なのです。フィレンツェのメディチ家が、娘の結婚式の時にオペラを上演しました。これが非常に良かったので、ヨーロッパ中の王侯貴族が真似をして、流行していったのです。
例えば、ウィーンは今でもオペラの素晴らしい街です。ウィーン国立歌劇場はもちろん、オペレッタもありますし、すごい規模なのです。私たちも楽しむことができます。なぜオペラの中心地となったかというと、ウィーンは神聖ローマ帝国の首都だったのです。神聖ローマ帝国は、ドイツ語を話す人だけではなく、スペインなども包含していて、ほぼ全てのヨーロッパの国を精神的に統一した帝国です。これをつなぎ止めるためには、今みたいにインターネットもないので、素晴らしいというイメージしかありませんでした。ウィーンに行けば素晴らしいオペラが観られるという文化をつくることが、重要だったのです。文化は力、本当に政治的な力だったのですね。
こうした背景があるので、ものすごい贅沢をします。例えば、レオポルド1世は結婚した時に、結婚式のお祝いに歌劇場を一つ造り、非常に贅沢なオペラを上演しました。そして、何日か後に全て取り壊してしまったのです。そうした無駄なことをしても平気なほど、お金を持っていて、国力が強いということを示すために、そうしたことをしたのです。その意味で、全く純粋ではないのです。
ですので、オペラが高いのはしょうがありません。高いからけしからんといわれることもありますが、とにかく贅沢な芸術なのです。つまり、人間にもやはり贅沢がある程度必要だということです。オペラはそうして生き残っている芸術なのですね。
●マタイ受難曲に見るバッハの作曲への態度
バッハはオペラを書いてはいません。しかし、もしチャンスがあれば書いたと思います。例えば、「世俗カンタータ」、「農民カンタータ」とか、「コーヒーカンタータ」などありますが、「アッと驚く為五郎」のような面白いカンタータなのです。「オペラブッファ」(コメディオペラ)と呼びますが、そうしたものと紙一重の曲を書いています。
また、「マタイ受難曲」という曲があります。これはイエスの受難を歌う、3時間近くかかる大音楽です。これに関しても、舞台はありませんが、音楽の作り方としてはレチタティーヴォにアリアが続くということで、実は当時のオペラそのものなのです。
当時のライプツィヒには、オペラ劇場はありませんでした。しかし、ライプツィヒはヨーロッパ中から商人が買い付けに来る流通都市、大商業都市でした。その維持のためには、やはりインバウンドのための観光資源が必要です。その一つがバッハの「受難曲」だったのです。そうでなければ、礼拝のための音楽に、3時間かかる受難曲など考えられないでしょう。これはインバウンドの需要に応えたものなのです。そうした事実も案外知られていません。
実はその曲には、随分と派手な部分もあります。それはオペラ的な効果を狙っていたのです。そうした音楽を書く度に、バッハは教会、トーマス教会付属学校、そしてその上の市参事会(今の市議会)、そこからお灸をすえられるのです。バッハが「マタイ受難曲」を書くのは1727年ですが、その後1730年頃から、ものすごいパワハラに遭いました。それに対して、バッハは頭を下げるかというと、全然頭を下げないのです。
それは、単なる人間的な問題だけではありませんでした。学校という組織を考えたときに、先ほどお話ししたような中世以来の、神様を讃えていれば良いという学校では、音楽が非常に重要なのです。しかし、すでに社会は大きく変わっていて、これからは実際の生活に必要な実学をもっと勉強しないと、生きていけない時代になりました。今日もそうですね。そうすると、毎日、毎日、歌ばかり歌っていたのではどうしようもないということになってきます。そうして音楽の授業がどんどん減らされていきました。そうした社会の大きな転換と、バッハに対するパワハラは...