●キリスト教の立場
キリスト教には、GodとJesusがいます。GodとJesusの関係は、少し複雑なのですが、まずGodが父であり、Jesusが子どもです。しかし、旧約聖書にはGodに子どもがいるとはひと言も書いていません。しょうがないので、新約聖書というものをこしらえて、そこにJesus、つまりナザレのイエスのことを書きました。そして、神の子どもだと書いたのです。旧約聖書と新約聖書の2冊を合わせて聖書だというのが、キリスト教の立場です。
ですから、なかなかややこしいのですが、イエスが神の子どもだということは、キリスト教にとって証明済みの事実で、済んだことになっています。新約聖書に福音というものがあり、ここには、イエスの言葉があります。それに、みんな従いなさいという教えです。
●社会秩序の維持・安定のため、ローマ帝国とキリスト教が協働
さて、コーランはイスラム法ですが、新約聖書に書いてあるのは、福音です。福音書は4冊あるのですが、イエスが「みんなを救いますよ」ということが書いてあります。
それでは新約聖書は、法律なのでしょうか。実は、法律ではありません。それでは、キリスト教徒はどういう法律に従うのでしょうか。これは聖書に書いておらず、決まっていません。決まっていないので、適当な法律に従います。
福音書の次に、「ローマ人への手紙」というものがあります。パウロが書いたのですが、そこには「さしあたりローマの法律に従いなさい」と書いてあります。なぜなら、ローマ帝国にいるのですから、もしローマの帝国の法律に従わなかったら、反政府運動ということになります。たちまち弾圧されて、ライオンに食べさせられたりして、駄目になってしまいます。ですから、おとなしくローマの法律に従い、ローマ帝国の政府に協力するという態度なのです。これにより、キリスト教徒の人数は増えました。
おとなしいキリスト教徒が、「社会秩序の維持・安定に協力します」といって出てきたら、ガタガタになりかかっていたローマ帝国にとっては、大変都合が良いのです。そこでキリスト教を公認して、「キリスト教は社会秩序の維持・安定に協力しなさい。その代わり特権をあげるからね」と言いました。こうしてローマ帝国とキリスト教は一緒になり、安定しました。これは3~4世紀の話です。
さて、これでうまくいったかというと、ローマ帝国は結局、滅んでしまいました。特に西ローマ帝国は、あっという間に滅んでしまいました。そこにゲルマン人がやってきて、蛮族が跋扈し、いろいろな国ができました。この蛮族とは、キリスト教徒でない場合もあります。しかし、法律を持っているので、しょうがなくそれに従うことになります。そのうち、ゲルマン人がキリスト教に改宗します。そうすると、ゲルマン法はクリスチャンの法律だということになります。しかし、ゲルマン法は古代法です。
●啓蒙思想と主権国家
そのうち、だんだん世の中が進んでいき、絶対君主が登場します。絶対君主が命令をするのです。偉い絶対君主の命令は、法律だということになり、それに従う義務が生じます。これはキリスト教徒の考え方・やり方です。これにより、メチャメチャなことをやりました。そうすると次に、啓蒙思想が出てきます。啓蒙思想によれば、神の命令は自然法という形で、見えないが書いてあると見なされます。それに従ってみんなで約束し、契約を結んだら、それは法律にしようという考え方です。ホッブズ、ロック、ルソーは、こうした考え方でした。
これを実行に移す人たちが現われました。実行に移したのは、アメリカ合衆国です。そして、フランス共和国です。こうした実例が出てきてしまうと、市民が契約で国家をつくり、法律をつくっていいのだということになります。これが主権国家であり、ナショナリズムです。「これでいいじゃないか。どこに文句がある」という話になります。これで話が通じるようになり、キリスト教徒のやり方になってしまいました。
●キリスト教徒は社会の変化に合わせて法律をうまくつくり変えていった
キリスト教徒のやり方ということで、人類共通の法律はないということになります。つまり、国によってバラバラです。その法律は慣習法だったり、借りてきたローマ法だったりしましたが、今やキリスト教徒が相談してつくるものになっています。キリスト教徒は勝手に法律をつくっていいということです。
この法律は宗教法ではなく、世俗法です。つまり、人間の都合で法律をつくっているわけです。人間の都合で法律をつくることができれば、人間の都合で、法律をつくり変えることもできることになります。そうすると、社会の変化に合わせたり、社会の変化を促進させたりするために、次々と法律をつくることになります。よって、近代化に非常に便利なのです。...