●インドにおけるヒンドゥー文明
次はインドで、インドはカースト制です。詳細は割愛しますが、カースト制は、支配カーストとそうではないカーストに分かれます。バラモンがトップです。クシャトリアが2番目で、ヴァイシャ、スードラ(=シュードラ)と続き、その下にアウトカーストであるダリットがあります。4つ、ないし5つのカテゴリーがあり、このなかもさらに細かく分かれています。
なぜこのような差別(身分制度)があるのでしょうか。これはインドの考え方なのですが、私の理解によると、インドには神が大勢います。そのため、実は神よりも真理というものを重んじます。この宇宙には真理がある。これは素晴らしいもので、人間はこの真理を理解し、体得し、真理と合体して、素晴らしい存在になることができるという考え方があり、これがインド人の根本的な考え方です。バラモン教やヒンドゥー教もそうですし、仏教もこういう考え方です。
さて、この真理にアクセスすることは簡単ではありませんが、たまにアクセスできる人がいます。そういう人を「聖者」といいます。聖者が出てきて真理を体現し、真理そのものになって、素晴らしいことが起こります。そして、みんな聞きにいきます。「聖者さん、真理って、どんなものですか? 真理を体得すると、どんな素晴らしいことがありますか?」と。それに対して、聖者の答えは、「真理? 素晴らしい。でも、言葉では言えない」というものです。仏教にはそのように書いてあるのですが、ヒンドゥー教にもそう書いてあり、インド人はみんな、そう言うわけです。
●ヒンドゥー教における真理は「言葉で言えない」
この「言葉で言えない」というところに注意してください。キリスト教、イスラム教、一神教だったら、真理は言葉で言えますか。
言えます。神が言葉で言うからです。神の言葉はそのまま真理です。真理を書いた本があります。それでは真理にアクセスするにはどうしたらいいか。本を読めばいいのです。だからみんな、本を読みます。聖書を読み、コーランを読みます。そして暗記し、それを生かし、生きていきます。これが一神教のもとでの人間の正しいやり方です。本があるとこういうことになります。
中国では、どうでしょうか。正しい規準の本があります。これを読んで体現し、本に書いてあるように行動することが、人間として、一番価値があることです。本があると、字が読める人が本を読んで、がんばることになります。4つの文明のうち、3つの文明まで、こういった形なのです。
●バラモンだけがフルタイムの修行で真理にアクセスできる
インド文明だけ、本はあっても参考にしかなりません。真理は「言葉では言えない」というのです。このことは、「あなたも真理を体得しないとダメだ」という考えにつながります。一人一人が、別々に真理を体現します。お経があるのでこれを読むのですが、お経を読んだだけでは、覚ることはできません。お経を参考にして、修行しないと覚ることはできないのです。真理にアクセスするのは、本を読むのとは別な作業で、それ以上のレベルが必要だからです。これが、インド人の考え方です。
そうすると、誰が真理にアクセスできるのでしょうか。真理にアクセスする方法は、瞑想です。じっと座り、精神集中をするのです。その他にも、トゲトゲのベッドに寝てみたり、片足で10年間立ったり、特定の食べ物しか食べないなど、変わった修行の方法もあります。どれが効果があるかは、よく分かりません。しかし、どの修行法もみんなフルタイムです。修行をしている間は働けません。働いている間は修行できません。そうすると、バラモンとは、サンスクリット語を読んで勉強し、その後フルタイムで修行することを許されている人だということになります。
●他のカーストは来世でバラモンになるためポイントを貯める
クシャトリアは、政治や軍事に関わり、ヴァイシャはビジネス、スードラはサービスを行います。このようにそれぞれ自分の仕事があるのです。自分の仕事をしている間は、真理にアクセスしないし、できません。ですから、バラモンより下なのです。下といってもいろいろあって、それぞれ順番があるのですが、真理へのアクセス可能性によって、人間のランキングは決まっています。
非常に不公平です。「私もバラモンになりたい。どうしたらいい?」と考えても、現世ではもう生まれてしまっているので、変えることはできません。例えばスードラはスードラなので、変わりたければ来世でバラモンに生まれるしかありません。生命は、順番待ちで輪廻しているからです。「来世でバラモンになれるから、待ちましょう」というわけです。
来世で、どうやればバラモンになれるのかというと、ポイント制です。ポイントを貯めると、上に行けま...