●キリスト教や仏教は「厳しさ」も「愛」もあるから素晴らしい
―― 今回のテーマの「毒を食らえ」は、まさに今、現代人が一番忘れてしまった話ですね。一番、嫌なものって……。
執行 そうです。「毒を食らう」ことが不足しているのは身体に関してもそうだし、精神に関してはとくに多いですね。
―― すぐ鬱病になる人が増えています。
執行 そうそう。キリスト教がなぜ素晴らしかったかというと、仏教もそうですが、昔の宗教はおいしい部分もありながら毒もあり、両者がちょうど中和しているからです。だから、それを食べていると、毒の部分も受けながら、愛の部分も受ける。私の好きなウナムーノというスペインの哲学者は、キリスト教の中心思想である「愛」は苦悩のなかにしか存在しないと、はっきり言っています。
苦悩というのは、精神の毒です。その毒を自己消化するために苦しみ抜くと、そこに一緒についている「愛」というものが分かってくる。これは、食べ物で言えば、一緒についている分子構造のようなものです。
これがキリスト教でも同じことになる。「毒を嫌う文明」はヒューマニズムが行き過ぎた西洋から生まれたわけですが、キリスト教のなかの「楽で、おいしくて、優しい」部分だけがヒューマニズムになったわけです。
それが発展してしまったため、あの偉大だった欧米があんな状態になり、西洋人たちは今や移民さえ止められなくなってしまっています。それらは全部キリスト教が持っていたもので、どういう部分かというと、キリスト教に含まれていた毒の部分です。毒というのは、食べ過ぎると死んでしまうわけです。
聖書の記述でいえば、私はよく「マタイ福音書10章34節」以下に書いてあることを取り上げます。今の人はこの記述をほとんど取り上げなくなっているため、キリストは「愛や家族や隣人などの人を愛することが何よりも大切だ」と教えたと信じています。
ところが、「マタイ福音書10章34節」以下には、わたし(神)の言葉に従いたいなら、女房を追い出し、兄弟は義絶し、親は捨てろと言っている。以下引用します。
「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。」
そして、次の節では、こうなります。
「なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。」
執行 神よりも親兄弟を大切にするのはもってのほかだと、キリストがはっきり言い渡しているということです。
―― 厳しさがあるわけですね。
執行 あります。神が中心であり、神の掟が分からない家族などはすべて捨て去れと言っています。これがキリストの中心思想です。たとえばガリラヤ湖で漁師をしていたペテロを弟子にするときも、条件などはつけず、イエスは今すぐ何もかも捨ててついて来なさいと言った。
―― 何もかも捨てるというのは厳しいですね。
執行 厳しいです。親も子も女房も、家族なんて問題外。財産も何もかも捨て、すべて今着てる服も捨てて真っ裸でついてこいというのです。
―― でも、その厳しさがあるから。
執行 そうそう。言いたいことは、キリスト教の信仰がまだ盛んだった頃は、厳しさがあることをみんな知っていたということです。なおかつ、われわれは人間だから、それでもやはり優しさも大切だし、同情も大切で、貧しい人も助けなければいけない。このようなことが、昔から皆ありました。世の中には宇宙の秩序というものがあり、神というのはつまり宇宙の秩序だからです。
―― 秩序ですね。
執行 秩序がある。この秩序に逆らうものならば、親も子も許すなというのがキリスト教で、それを今は忘れてしまったということです。
―― でも、「いいとこ取り」をすると、結局何も身につかないですよね。
執行 そういうことです。いいとこ取りは全部駄目です。私がみんなによく話す例では、親子関係を挙げます。今の人は親とか先祖が嫌いですが、先祖を調べていくと、立派な人ばかりいるわけはなく嫌なところも出てくるからです。
―― ああ、それはそうでしょうね。
執行 そうなのです。今の人は民主主義で育っていて、全員自分を大したものだと考えているから、くだらない親や先祖がいると困るわけです。だから、家柄を大切にできません。
家柄を大切にする場合は、先祖が犯したくだらない失敗や罪まですべてを抱えないといけません。すべてを抱きかかえることによって、親や先祖の魂が自己に宿ってくるわけです。くだらない、つまらない失敗というのは、たとえば「飲んだくれ」だったようなことで、それがその人の家系の「毒」なのです。その毒を食らわないと、家系からやってくる良いものも出ないということです。
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