●自分の拠り所を持つ
―― 例えば、試合後のインタビューで、選手が最後の最後に踏みとどまれた理由として「いや、自分より練習した人はいないと思っています」と言うことがよくあります。そういう拠り所を自分で作って、「いや、いろいろな相手がいるけれど、あいつよりも俺のほうがたぶん練習してきたぞ」と思うというのも1つの自信のつけ方だと思います。半面、練習をしすぎて調子を崩すというようなこともあると思うのです。例えば8月1日に競技があったとして、どうやってその8月1日にピークを合わせるか。ピークを合わせるという発想自体が、一般の方からは想像がつかない世界ではありますが、自信の部分も含め、どうピークを合わせるかというのは調整されるのですか。
為末 ピークについては、私たちは2つの観点で捉えています。1つは心理的なもの。もう1つは身体的なものです。
まず、心理的なものとして、「自分より練習をたくさんしたやつはいない」ということが最後、自分の拠り所になるという話がありましたが、これは、必ずしも練習ではなくてもいいのです。何かしらの拠り所、自己暗示の方法として、カトリック系の国の選手の多くは、最後には、全ては神に委ねるので、「自分にできることは一生懸命やることだと信じていました」というコメントをよくします。
これはそれぞれ文化圏によって違います。ただ、最後の最後、自分の意志で何々しようというのは弱い。何か外部のものとか、過去とか、もう少し大きなものとかに委ねて、「あっ、なんだ。ある意味で自分の力はそんなに大きくないのだから、とにかく一生懸命やる。結果の責任なんて僕にはとても負えないのだから、一生懸命やることにだけ集中しよう」と、ある意味で、心を整えて、範囲を広げすぎずに、やれることだけやろうと納得させる手段なのかなという気がします。日本人はそれを過去のトレーニング、練習量、過去の苦しさに拠り所を求めることが多い印象ですね。
―― 以前、オペラ歌手の方が、本番にうまく声が出せるかどうかというときに、キリスト教を信じている人だと、「それは神様が決めることなので、舞台に出たら歌うだけです」という発想だとおっしゃっていたのは、印象深かったですね。選手の場合もそれに近いということですね。
為末 そうですね。オリンピック、世界大会の1番になるとか、メダルを取るということが、全て自分のこれから動かす手や足の動きで決まるというのは重すぎて、人間は背負いきれない。実際、考えてみると、子どものときに育ててもらった環境とか、コーチとか、いろいろなものの力の組み合わせで今の自分がいるわけで、自分が今からやることは実は小さい。逆にいえば、「私がやればいいのはこのことだけなんだ。一生懸命目の前のプレーをすることだけなのだ」というのは、ある意味で、視界を狭めるような効果があると思うのです。集中するために、選手はそれをやっているのです。
私も現役の時、そこまで宗教観が強くないので拠り所がなかったのですが、最後は、「でも、日本代表を選んだのは俺ではなく、日本陸連だから、俺のせいではないか」という、ある種の開き直りというのでしょうか。「一生懸命やることだけが俺の仕事だ」という感じに思っていました。選手はそれぞれ心を落ち着ける方法を持っていると思います。
―― プレッシャーを背負えば背負うほど集中力が高まるパターンがあるのかどうか分かりませんが、そういうパターンもあれば、開き直ってやってしまったほうがいいパターンとか。人によっても違うので、自分のタイプでやるのがいいのでしょうか。
為末 競技によっても違う気がします。例えば、同じスポーツでも、年間を通して勝ち負けを繰り返して、その平均が高いのがいいとされているような、野球やサッカー、テニスみたいな競技もあります。一方、私たちの陸上競技は3年間、11カ月ずっと負けていても、オリンピックのときだけ勝ってしまえば、世界チャンピオンになれる。だから、少しむらっ気があって、感情が揺れても、ある瞬間だけ思い切り力が出るという性質になりがちではあります。
だから、競技によっても多少は違いがありますが、いつもと同じことをやるのがいいことだと思う選手と、試合のときに化けて出る、何か普段の自分ではない自分、「火事場の馬鹿力」が出るのがいいことだと思うタイプに大きく分かれるような気がします。私は後者のタイプで、「本番のときだけ自分の力が出るようにするにはどうすればいいか」を考えることが多かったですね。
●「ダメージを与えて回復させる」を繰り返す「ピーキング」
―― ここまでお聞きしたのは、本番にピークを合わせるという心の部分ですね。身体の部分は、競技によっていろいろ変わってくると思いますが、どのようにコントロールするのですか。
為...