●あっさり無職になって「真空状態」に身を置く
執行 村井さんがJリーグのチェアマンになられるときに、村井さんと話をしていて、村井さんの勇気を実感し、感動した事件があります。
村井さんはサッカーマンではないので、どういう経緯でJリーグに行ったのかをいろいろ思っていました。すると村井さんとお話ししたときに、会社(リクルート)の役目を終えて、社長など会社での仕事を全部辞めて、言葉でいえば「無職」になっていたときに何かの関係で、新たに話が来たと聞きました。
私は、これもすごいことだと思います。小さな仕事ならともかく、香港法人の社長など社会的に素晴らしい地位の仕事に就いているのに、次を決める前に、それをあっさり捨てる。任期が終わったからと1回無職になれる人間は、すごいことです。現代では、あまり見たことがありません。
明治時代には、たくさんいました。明治人の伝記など、本では知っていますが、現代人ではほとんど見たことがありません。村井さんの進退問題、自分の去就を決める勇気をすごく感じました。
それがJリーグのチェアマンとしての功績にもつながっている。スポーツ団体のチェアマンをしている人はたくさんいますが、お世辞ではなく、村井さんは画期的な業績を上げている方だと思います。そういう業績を上げられる中心になっているのが、言葉は軽くなりますが「欲でなったのではない」ということです。「欲でなる人」は、やはりそれなりの経緯があります。
村井 チェアマンになろうと思って、なれるものでもないですが……。
執行 そうでもありません。「なりたくてなる人」が多いのです。私が見ていて、そうです。
1回1回自分の務めを果たして、果たし終わったら相当の地位でもパンと辞める。次の仕事がなければないでいい。来たのなら受ける。そういう人は、あまりいません。まだ明治には、たくさんいました。
もっと古い話でいえば諸葛亮孔明と同じです。「三顧の礼」ではありませんが、優れた人物は自分から出ていくのではなく、請われればやる。「頼まれたら、やってもいいけど」というのが、昔のある程度の人物です。それを村井さんはやったのです。自覚はないと思いますが(笑)。
村井 いや、まったく……。高校時代はサッカー部にいました。プロでも何でもない、普通の高校生です。そのとき、夏休みの合宿に卒業した先輩が偉そうにやって来て、「もっと若いの頑張れ」みたいにいうのが、無性にムカついた。実際、私はOB会や同窓会というものに出ないと決めているのです。
だから(香港法人も)「次、お前ね」と新社長を決めたあとは、1回もオフィスに行っていないし、同窓会みたいなものも1回もやっていません。逆にいうと自分がやっているときに、先達の人に伴走してほしいとも思っていません。それが当たり前だと(笑)、思っていた感覚がありました。そして仲間に、「今から人生のB面に行きます」といってスパッと辞めて、香港を畳んで帰ってきました。
執行 すごいことです。
村井 あまり考えてなかったです(笑)。
執行 私は自分の一番親しい友人ともいえる人が、そういう辞め方をし、次に就くときもそういう就き方をしたのを知った。これは本当に、自分の人生の喜びの1つでもあります。そういう方と知り合うのは、喜ぶべきことですから。
私の好きな言葉で、フランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユの「恩寵は満たすものである。だが恩寵を迎え入れる真空のあるところにしか入っていかない」というものがあります。これは西洋の実存主義、キリスト教から来る哲学の、最も深い中心課題です。それを実行されたということです。
要するに、何か物事が起こるときは、起こる前に「真空状態」がないと、次のものが入ってこないということです。呼吸と同じことです。(シモーヌ・ヴェイユがいう)「恩寵」とは神のお恵みですから、「いいもの」に関しては、そうであるということです。
それを職業の去就について、村井さんは実行された。これは、村井さんの持つ勇気の中でも、代表的な1つだと思います。今、そういうことをされる方は、ほとんどいません。そして知らず知らずのうちに村井さんは、シモーヌ・ヴェイユのいう西洋哲学の根本命題を実行されたのです。
次々とキャリアアップしていくのが、今は普通の知性の考えることですが、シモーヌ・ヴェイユの哲学課題は「恩寵」ですから、神から与えられるものです。不合理極まりないものです。しかし、その中に生命の真実、宇宙の真実があるということを、シモーヌ・ヴェイユはこの言葉でいったのです。
だから村井さんにとって「Jリーグのチェアマン」は、神が与えたものだと思うのです。村井さんの生きる姿勢の中に、神が下されたものがあったということです。そう見えるということです。...