●サッカーを愛するのは、それが不合理の究極だから
―― 非常に幼稚な質問なのですが、まさにアウフヘーベンのところです。リクルート時代の人事をガラッと変えるのもそうですし、香港に行かれて「アジア人でやるんだ」といって現地企業を買収するときもそうですが、要は「少しずつ変える」とか、「前任者がやってきたことを少し踏襲して、何か新しいものを足す」という発想ではなくて、ガラッと大きな仕組みを変えていくことを手がけられている印象を受けました。このときに必要なものは、何なのでしょうか。
たとえば、「アジア人でやろう」というビジョンは、先ほどの「主観と客観」でいうと、おそらく「主観」に位置すると思います。そういうものをどう着想して、そこに「客観」という矛盾をぶつけてアウフヘーベンさせるのか。ご自身の感覚だと、それはどういうところでしょう。
村井 そうした見方のトレーニングを、私は一方的な壁打ちをさせていただきながら、していたと思います。「主観と客観で捉える」とか「動脈と静脈で捉える」とか「サイエンスとアートで捉える」とか。つねに2つを同時に見立てていくことを、すべてにおいてやっていたように思います。
「どちらか」という議論は、必ず行き詰まります。しかもヘーゲルには、螺旋的発展の話があります。歴史的に見ると確かにそうで、たとえば今のインターネットオークションに対し、昔の日本には「競り」があったとか。「投げ銭」みたいなものも、今インターネットで新しいビジネスモデルになっています。
歴史的にいろいろなものを俯瞰して見ていくと、もう1回形を変えて、それが新しく成長するみたいな話は、もうずっと学びから得ていました。そういう見方をしていくと、意外とビジネスヒントや改善ヒントが出てくる。
でも、それは始動力を発揮しないと動かないものもあれば、大久保(利道)や木戸(孝允)らがやるような改善系のものもあるでしょう。それらを両方で見ているところがあります。つねに「始動」や「ゼロイチ」ではないし、「改善」も多々あります。それらの裏側には、基本フォーマットや基本パターンがあるような気がしています。
―― 基本フォーマットとは、もう少し具体的には、どういうことですか。
村井 二律背反、裏表、陰陽、すべてにおいて裏と表があるということです。人間も執行さんがおっしゃるように、物質的な体の部分と精神という二律背反するものを自分の中に封じ込めて生きています。
そういう見方ですべてを見ていくと、だいたい対立軸が浮き上がってくるのです。それを並べてみんなで議論する。「こっち派」と「こっち派」に分けるのではなく、両方セットで議論していく。そうすると解決策もいろいろ出てくる。「1段上がる」という感覚です。
執行 村井さんが気づいているかわかりませんが、これは簡単にいうと「不合理を愛する気持ち」です。
つまり、不合理に対し、「これは不合理だ」というのではなく、「不合理なのが人間存在」「不合理なのが世の中」「不合理なのが歴史」「不合理なのが人類というものの生き方」だということがわかると、アウフヘーベンもできます。
アウフヘーベンができるかできないかは、「勇気」です。その勇気の元は、不合理を受け入れ、不合理を愛する勇気です。そして不合理を自分の責任にする。「不合理な人間にならなければ、できない」ということです。
村井 私はなぜサッカーにこんなに惹かれるのかと、自分の中で何度も何度も考えたことがあります。突き詰めるとサッカーは、執行社長がいう「不合理の究極」なんです。人間が手を使わないという。
プロが90分やっても、0対0で終わるとは何か。あれは全部、失敗、挫折です。望みもしないオウンゴールとか。サッカー固有の、要は手を使わないと、これだけ……。
執行 だって、人類の文明は、手ですから。そういう意味では不合理です。
村井 不合理の究極を突き詰めて見ていくと、いろんな面白いことが見えてくる。「ああ、これは執行さんと前に話したな、この不合理は」といった話に戻るのです。相当サッカーは不合理ですよ(笑)。
執行 素晴らしい見方だと思います。私もそれはサッカーを見ていて感じます。要するに点が入らない魅力です。普通、スポーツは、点が入るのが魅力です(笑)。
―― ホームラン的な「4点入ります」という世界もありますからね。
執行 でも、サッカーは入らないことに興奮する。
村井 不合理だから。
執行 だから1点入ったときの喜びは、すごいものがあります。この不合理を愛する気持ちは、私流にいうと「不合理を愛する勇気」です。この勇気のない人は、絶対できない。だって不合理ですから、「ろくでもねえ」となる。悪であり、間違いであり、人から非難される。そうした可能性が大...