●源氏勢力の躍進における「奥州合戦」が持つ意味
やがて鎌倉幕府が樹立される際には、「内乱の10年」といわれて、武門が淘汰されていく中で鎌倉幕府の武家政権が成立しました。内乱の10年の前半の5年間は対平氏を攻略する5年間でした。そして、平氏の攻略が終わった後、文治5(1189)年に頼朝は「奥州合戦」を展開していきます。
先ほどお話ししたように、将門の乱を追討した追討3人衆の子孫たちの最終ラウンドにあたる内乱の10年は、頼朝が生き抜きました。源経基の末裔たる河内源氏の頼朝が、まずは西に向かって平貞盛の末裔である清盛の平家一門を文治元(1185)年に打倒します。そして、その後に今度は北に向かって、文治5(1189)年に、奥州藤原氏を打倒します。奥州藤原氏は、清衡、基衡、秀衡という奥州三代のあとを受けて、四代目である秀衡の息子の泰衡が統治を成していました。その奥州藤原氏のルーツが藤原秀郷です。
この流れから分かるように、ある意味では、頼朝は、まず西に向かって清盛を、やがて北、東に向かって泰衡をというように、10世紀における追討3人衆の末裔たちをこうして統合していき、武威の権力を確立していきます。
頼朝はそういう折りに、奥州合戦に参加した武士たちに、前九年や後三年の合戦を常に引き合いに出します。そのため、頼朝のもとに参加した武士団たちにとっては、前九年なり後三年を戦った頼朝の先祖たちの系図の中に自分たちを入れ込むことが、多くの関東の武士団のアイデンティティになっていきました。
その意味では、頼朝における政治の一環として奥州合戦がありました。ある意味、その奥州合戦は、源氏の頼朝の父祖たちが安倍氏や清原氏に起こした干渉戦争の再来で、勝つべくして勝った戦いでもありました。その結果として、武家の正統なる認知のための官職を「征夷大将軍」と呼ぶことの意味を、頼朝は改めて御家人たちの前に突きつけることによって武家の正統性を認知させます。こういう行動につながっていったということです。
こうしたことからも、われわれは武家や武士の問題を扱う際に、封建制や中世の意味を考えなければいけません。これはとてつもなく大きい問題です。実は中世はお手本がない時代であるということ、またそうした中で日本国が武家、武士を誕生させたことの意味を考えることがポイントです。
●近代の象徴としての封建制を武士に見いだす動きがある
その折りに重要なことは、日本社会が担った武家の政権が一方では封建制という部分とリンクしているという議論です。武士と封建制のリンクがなぜ重要な意味を持つのかというと、近代の成立を考えたとき、知ってのように市民革命と産業革命の2つがそのための両輪だったからです。市民革命から民主主義が生まれ、産業革命から資本主義が生まれたように、2つは両輪になっています。その2つをいち早く達成した国が、日本国が近代にお手本にしたヨーロッパあるいは西欧でした。
そのお手本になったヨーロッパは、歴史的に皆、植民地を持っていた先進諸国で、いずれも市民革命と産業革命をいち早く達成しました。アジアを脱して欧州に仲間入りするという「脱亜入欧」の基本的な理念のもとにあるのは、ヨーロッパ諸国が歴史上体験した封建制でした。
そのヨーロッパの封建制(feudalism)が、わが国でいかにして体現されているかを発見することが重要でした。つまり近代の日本にとっての封建制は、ある意味では青い鳥だったのです。青い鳥を探すべく、日本国はヨーロッパに追いつけ・追い越せという形で夢を求めてやってきました。その意味では、封建制は青い鳥の象徴であって、その青い鳥を見つけるためのキーワードが武士でもあったのです。 そのため、武士の議論が戦前戦後を含めて、日本の歴史の中で極めて重要な意味を持つのは、日本社会が担っていくべき「あすなろ」的な世界の中で青い鳥を求めていくときのキーワードに武士が位置付けられていったからに他なりません。
ただし、(日本の歴史の中で)武士という存在を持ったことが本当に全て幸せであったのか、あるいは不幸であったのかは、いろいろな人の間でさまざまな議論があることを頭の中に入れておいていただきたいと思います。
今回のシリーズ講義で話した中身は非常に短い、いわば枠組みの話なので、十分に肉付けして咀嚼できているとは思いません。ご興味がある方は、次の本をご参照ください。
1つは講談社学術文庫に『武士の誕生』という本があります。この本は今回お話しした内容が少し深掘りされています。
そして、今回のお話の中では十分に吟味できなかったのですが、『刀伊の入寇-平安時代、最大の対外危機』という本もあります。11世紀...