●台湾関係法を成立させたアメリカの目論み
これ(前回お話したこと)が最近の情勢ですが、この台湾有事の可能性も含めて、台湾問題をめぐる米中関係は非常に緊迫化してきました。その背景を詳しく説明しておきたいと思います。
台湾は、日清戦争で清国が日本に割譲したもので、割譲を受けた日本は後藤新平をはじめ、大変有能な人材を送り込んで、台湾の発展のためにインフラを整備し、産業政策を推進してきました。
太平洋戦争で敗戦した日本は、台湾を手放して中国に返還しました。その後、長い間、台湾が中国の一部であることに世界が疑問を持たなかったのですが、1949年の国共内戦で蒋介石政権が敗れ、中国大陸(の共産党)に追われ台湾に移ってから、それ以降、中国の版図に北京と台北という、それぞれの正統性を主張する2つの政権が樹立されることになりました。つまり、並立したわけです。
北京政府は、台湾は大陸中国の一部だから、中国は台湾を含めて一つしかない。「一つの中国」という考えです。ところが、蒋介石が率いる台湾の中華民国政府は、光復運動を唱えました。光が復活するということです。それは何かというと、国民党軍が北京に再び攻め上がって中国を統一することです。これも「一つの中国」です。そのように矛盾したことをお互い言っています。
そして、1972年の2月に、ニクソン大統領が訪中して国交樹立の交渉をしました。中国共産党の毛沢東指導部は、「一つの中国」の大原則の承認を国交樹立の前提条件としたので、アメリカはこれを了承したのです。
それから数年遅れて、1979年1月1日、カーター大統領が中国と正式に国交を樹立しました。その結果、アメリカは台湾と国交を断絶せざるを得なかったのです。中華民国はそれまでの国連の安全保障常任理事国だったのですが、その資格を剥奪されて中華人民共和国、つまり今の中国でPRC(People's Republic of China)が常任理事国になったわけです。
アメリカの台湾防衛司令部と米軍が台湾から撤退すると、東アジアの軍事バランスが激変する恐れがあるので、台湾を防衛するための軍事行動の選択肢として、1979年、アメリカは国内法ですが、台湾関係法を制定したのです。台湾関係法による台湾防衛は、台湾の平和を担保するためにさまざまな支援や軍事援助をすることを想定していますが、軍事介入は確約していません。これは「戦略的曖昧さ(Strategic ambiguity)」といわれます。
その当時、1980年代から2000年代までは、アメリカと中国の国力ではアメリカのほうがはるかに圧倒していたので、台湾は戦略的曖昧さの庇護の下で、アメリカに依存した安全を享受することができたのです。
一例でいうと、1995年から96年に台湾危機があり、中国が台湾への威圧のためにミサイルをたくさん台湾海峡に撃ち込んだのです。それでアメリカ海軍は航空母艦を2隻派遣しました。その1隻は横須賀から出動しているのですが、当時は米中の国力、戦力は、圧倒的にアメリカが強かったので、中国は黙って引き下がったわけです。
1972年9月に田中角栄首相が中国を訪れて、日中国交回復という大きな仕事をしたわけですが、日中国交正常化の共同声明の第3項に、「中華人民共和国政府は台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する」ということが書いてあるのです。いろいろあったのですが、ポツダム宣言やカイロ宣言などを引用しながら、中華人民共和国への台湾の返還を明示した上での日中国交回復だったわけです。
中国は1990年代から鄧小平氏の改革開放政策の下で、経済が飛躍的に発展しました。鄧小平氏は「韜光養晦(とうこうようかい)」という言葉を使いました。難しい字ですが。これは爪や才能を隠して、内に力を蓄えるという意味です。そういう考え方で、自ら国際的な自制する姿勢を貫いたのです。したがって、国際社会から一定の評価を得ました。
アメリカは、経済成長を加速する中国では、やがて中産階級が蓄積して選択の自由を求めることになり、さらにアメリカやヨーロッパの先進諸国と共通する価値観が育つことを期待して、中国のWTO加盟を支援したのです。
2001年にWTOに加盟しますが、その効果もあって鄧小平氏の改革開放政策・戦略で、中国はその後、経済成長を加速しました。江沢民・胡錦濤時代にも引き継がれて、20年間で中国のGDPは世界の3パーセントから15パーセントに拡大したのです。
●大国主義を鮮明にした中国による強引な「3つの列島線」
中国は2010年にGDPで日本を追い抜いて、世界第2位の経済大国になったのですが、同時に急激に軍備を強化して、経済と軍事面でアメリカに次ぐ世界大国になったのです。2012年に国家主席に就任した習近平氏は、それまでの鄧小平氏の「韜光養晦」思想を否定して、あからさまに大国...