●胸がつめたくなる…「ラッコの上着」という悪口に対する表現の切なさ
―― それでは2回目として一つ目のテーマは「ジョバンニの孤独」です。前回のあらすじにもいろいろなシーンが出てきましたが、いくつか見ていきたいと思います。
最初のところが家のシーンです。お母さんと、友達が悪口を言うんだよという話をしているのは、ここになります。
鎌田 「ラッコの上着」とかね。
―― そうですね。「ラッコの上着」という悪口を言う、という話ですね。
次のシーンですが、先ほどの牛乳屋から帰るところで友達の一群に会った。ここのところで「烏瓜ながしに行くの」と訊いてみたら、返す言葉で「お父さんから、ラッコの上着が来るよ」と馬鹿にされる。最後もそれで「なんだい、ザネリ」とジョバンニが叫び返す。最後の(あんなことを言うのはザネリがばかなからだ)というメッセージも、子どもらしい孤独感が深く描かれたシーンになります。
鎌田 ここで見逃せないのは、「ぱっと胸がつめたくなり、そこらじゅうきいんと鳴るように思いました」というあたりの宮沢賢治の表現の切なさが、実にリアルに迫るところです。そのように、聞いた瞬間に自分のこころの中が凍りついてしまうような感覚が、実にビビッドに、切なく表現されていますね。
―― そうですね。誰しもの人生でおそらく何回かはあったかもしれない、こういう経験を思い起こさせるものですね。
鎌田 それは、深い傷にもなりますよね。
●どうして僕はこんなにかなしいのだろう…孤独を見つめるジョバンニの泪
―― 次の孤独のシーン。ここをゆっくりと見てまいりたいと思うのですが、先ほどのあらすじでいうと、「鳥捕り」の話が終わって、女の子と弟と青年が乗ってきた後になります。カムパネルラと女の子が楽しげにいろいろ話をしているシーンですね。
鎌田 だんだん独りぼっち感が高まってくるところですね。
―― 女の子のほうは、さすがに女の子なのでジョバンニに気を遣って、「まあ、この鳥、たくさんですわねえ、あらまあそらのきれいなこと」などと言って話しかけるのですが、ジョバンニはだまって口をむすんで、そらを見あげている。話もしないわけです。それで、女の子は小さくほっと息をして、席に戻ってしまう。カムパネルラはそれを見ていて、きのどくそうに窓から顔を引っ込めて地図を見ている。女の子は、今度はカムパネルラに話をしていくという流れになっていきます。
鎌田 どうしても素直になりきれない。ジョバンニには、どこかすねてしまうようなところがあります。
―― おそらく気持ちとしては、せっかくカムパネルラと乗っているのに、新しく来たやつがなんで邪魔をしているのだ、という複雑な気持ちがあるのだと思います。
カムパネルラとその女の子がいろいろ話をしている。ジョバンニももう頭を引っ込めたかったのだけれども、「明るいとこへ顔を出すのがつらかったので、だまってこらえてそのまま立って口笛を吹いていました」というシーンから後が、ジョバンニの心情描写になっていきます。
(どうして僕はこんなにかなしいのだろう。僕はもっとこころもちをきれいに大きくもたなければいけない。あすこの岸のずうっと向こうにまるでけむりのような小さな青い火が見える。あれはほんとうにしずかでつめたい。僕はあれをよく見てこころもちをしずめるんだ)
これはこころの中の声ということになりますが、先生はどのようにこのメッセージをお読みになりますか。
鎌田 私が一番こだわりたい部分がここです。なぜこだわっているかというと、1次稿から4次稿の最終形とされているものまで、一貫してここはずっと変わらない部分だからです。宮沢賢治の初期から最終形まで変わらない核心の部分は、(どうして僕はこんなにかなしいのだろう。僕はもっとこころもちをきれいに大きくもたなければいけない。あすこの岸のずうっと向こうにまるでけむりのような小さな青い火が見える。あれはほんとうにしずかでつめたい。僕はあれをよく見てこころもちをしずめるんだ)。ここは、すごい悲しみと、そこから抜け出ていく、いってみればメディテーション(こころを切り替えていく瞑想法)のような部分をあわせ持っている箇所です。
そしてその後、(ああほんとうにどこまでもどこまでも僕といっしょに行くひとはないだろうか)と言う。一緒に行きたい。空海の四国遍路の言葉を使うなら「同行二人」のようなものです。「二人で一緒に行くのだ」という思いをどこかに持っているのですが、カムパネルラもあの女の子と面白そうに話しているし、何か奪われてしま...