●フロレンスキイの理論は高村光太郎の「義ならざるものは結局美でない」
執行 その芸術が、私に分かりやすい形で霊性文明のイコンの姿、自己犠牲の姿を表している。この絵(「ベラスケスのキリスト」)は、自分の名声や自分が認められたいとか、やりがいを得たいといったことを少しでも考えている人には描けません。
本当に「ベラスケスのキリスト」から宇宙のエネルギーを受けて、それを素直にキャンバスに描く。たぶんそれで認められたいとも思っていない。だから、持っているのに一番ふさわしいだろうと、13点の油絵をこの記念館に寄付されたのです。
―― すごいですね。
執行 労力だけを考えても大変なことです。あとで説明しますが、それが全部、霊性文明の逆遠近法になっている。逆遠近法の見方が分かると、この八反田先生の絵の価値が分かってきます。
―― でも、そこはすごく難しいですね。イコンの芸術もそうですが、普通の遠近法から入った人からすると理解不能になりますね。
執行 多分、分からないでしょう。一つ一つ説明していきますが、ビザンティンのイコンの霊性文明から見た理論にしても、私が考えたものでなく、パーヴェル・フロレンスキイです。イコンを本当の芸術として世の中に認めさせたフロレンスキイの見方からすれば、この八反田先生の絵が分かってくるのです。私はそのこと自体に、この八反田先生の絵を見て気づいたのです。
―― それはすごい関係ですね。
執行 ただ、私の記憶にはないのですが、戸嶋の絵を集めている頃も「これはイコンだ」と社員や周りの人に私が言っていたそうです。でも、なぜそう言ったのかは覚えていない。それが、八反田先生の絵でフロレンスキイがいう「逆遠近法の芸術」なのだと分かったのです。
逆遠近法とは何かというと、「神の目」です。逆遠近法の芸術は、先ほど言ったように「見る芸術」ではなく「見られる芸術」。
―― すごい表現ですね。
執行 私が戸嶋靖昌記念館と執行草舟コレクションを世に問うためにビルの中に美術館を作ったときに、記念館のキャッチフレーズ、座右銘として選んだのが、私の大好きな高村光太郎の詩です。彫刻家の高村光太郎はご存じですね。
―― はい。
執行 高村光太郎は(仏師で彫刻家の)高村光雲の子で、有名な芸術家です。彼の「義ならざるものは結局美でない」という言葉があり、私は直筆の書も持っています。
―― それは、すごいですね。
執行 芸術とは「義」のものだということです。私はこれを、美術館を建てたときに座右銘というか、キャッチフレーズに選びました。これが逆遠近法なのです。
フロレンスキイの理論は「義ならざるものは結局美でない」ということです。聖書を読むと分かりますが、神とは義です。つまり、神の存在が義で、これは(『新約聖書』の著書の一人)パウロが有名な「ロマ書」の中で断定しています。信仰とは何か。神とはこの世で何なのか。「それは一言でいうと義である」といったことが書いてある。
―― なるほど。
執行 だから、愛ではないのです。愛は義の中の一部で、ヒューマニズムに近い。ところが、神は相手を殺すものでもあり、裁くものでもある。あらゆるものであり、その全部を総合計して宇宙的なものを断行する力を「義」とキリスト教では呼んでいるのです。
―― 厳しさがあるわけですね。
執行 そうです。そして高村光太郎が「義ならざるものは結局美でない」と言った。私がこの言葉を選んだのは、やはり私の好きな『葉隠』、武士道と関係します。武士道とは義だと私は思っています。その意味では、武士道から生まれた芸術ということです。これが結局、霊性文明的に見るとイコンの文明に近い考えなのです。
―― なるほど。
執行 だから出発点からやってきた芸術活動で、そこに八反田先生が寄贈してくださったのです。
―― それに感化を受けて出来上がったわけですね。やはり絵に魂がこもるから、その魂が逆に先生にも影響を与えたと。
執行 多分、循環でしょう。義や愛は、みな循環ですから。愛のシステムも循環です。
―― 宇宙のシステムも循環だと。
執行 そういうことです。
―― すごく面白いですね。
執行 面白いところです。これは「見られる芸術」とは何かを考えると分かってきます。西洋芸術における、見られる芸術を代表するのがイコンなのです。西洋文明で言うとイコンで、禅もそうですが、東洋文明はもともとイコンなのです。このことを理論的に完全に気づかせてくれたのが八反田先生の作品ということです。
●コシノジュンコの絵もイコン、イコンが「真のリアリズム」
―― そこの部分を絵で気づかせるというのはすごいですね。
執行 この作品だけでなく、私がもともと底辺に持っていた部分が浮き出てきたのです。自分でも...