●宇宙と自己が同一化に向かう姿
執行 これはちょっと、すごいでしょう。子どものような感じがありますよね。子ども的な楽しさ、純粋な遊び心が出ています。八反田先生が付けた題名は「帰郷」です。ふるさとに帰る。『ベラスケスのキリスト』の詩で言えば、磔刑でキリストが死んだあとに、キリストは神の子だから神のもとに帰るということです。
―― なるほど。
執行 この「帰郷」からは、子どもの純真さみたいなものが、すごく浮かび上がってきます。これもパーヴェル・フロレンスキイの逆遠近法という手法です。その代表的な作品の一つだと私は思っています。
―― なるほど。
執行 ちょっと離れて見ると、よく見えますが、一つの宇宙の果てから自己に向かって何か到来してくるものを感じるのです。
私は埴谷雄高の『死霊』という文学が好きで、そこによく「アンドロメダ」という言葉が出てきます。アンドロメダ星雲から一つの神のエネルギーが我々に降り注いでいる。その降り注ぐアンドロメダのふるさとのエネルギーに向かって、私たちの死んだ命が向かっていく情景が浮かぶのです。
―― なるほど、死霊ですね。
執行 死霊が向かっていく。この子どもっぽい綺麗な描き方が、向かっていく姿というのは死霊ではあるけれど、赤子が母親を慕うときの姿だと思うのです。
―― なるほど。
執行 キリストが死ぬことによって、赤ちゃんになって神のもとに還って行く姿をこの中に感じるのです。これが先ほどの説明によると「受肉」「インカーネーション」の姿です。昇天していくときの自己同一化、つまりアンドロメダと自己との同一化に向かう姿。
このお菓子みたいな、ちょっと楽しい子どもみたいな、いろいろな色合いがありますね。すごくお菓子みたいな感じがするのです。
―― 本当、面白いですね。
執行 この中に「脱聖化」を感じます。何でもかんでも聖なるものにするのではなく、本当にキリストが持っていた肉体の命と神が合体するのですから。
「脱聖化」には、ある種のキリストの命がまだ生きている生々しさも感じます。キリストがいかに純粋な魂を持っていたか。そういうものが全部「帰郷」の中に入っている。
―― なるほど、面白いなぁ。
執行 ここに飛んでいる、いろいろなものに全部、キリストが地上で命を持っていたときの魂の飛沫を感じるのです。それが全部アンドロメダから来る我々のエネルギーと合体する。それがこの「帰郷」の姿です。帰郷とは神のもとに帰ることで、こういう絵を描かせる力が『ベラスケスのキリスト』の中の詩にあったということが、また嬉しいのです。
―― すごいですね。
執行 この絵を見たときに私がパッと思ったのは、阿弥陀様です。人間が死ぬときに阿弥陀様が迎えに来るという仏教の浄土信仰があり、その姿を描いた来迎図があります。いろいろな眷属を引き連れて、死んだときに人を迎えに来る。その来迎図を思い浮かべたのです。
―― なるほど。
執行 ここに阿弥陀如来がはっきり立っている姿が思い浮かぶのです。ただ阿弥陀の来迎図と言うと少し抹香臭いので(笑)、違う言葉で表現しているのです。
この青い部分にアンドロメダを感じましたが、ここに阿弥陀如来の姿があると言えば言える。八反田先生は「帰郷」、つまり死んだあとにふるさとに帰るという絵に、いろんな色を使って、子どもが食べるお菓子みたいな感じを出しているのが、すごく東洋的だと思います。西欧文明で見ると「幼稚」と言われますが、この幼稚と言われる部分がイコンの深遠な「神から見られている姿」というのが正しい見方なのです。
―― なるほど。まるで違いますね。
執行 まるで違う。逆なのです。すごいでしょう。
―― 大したものです。
●暗黒の宇宙に打ち込まれた一瞬の愛
執行 この絵は帰郷したあとです。八反田先生が付けられた題は「愛だけが…」です。この題名や絵の内容から私が思うのは、先ほどの説明で言うと暗黒流体です。宇宙を支配しているのは暗黒流体という真っ暗な、ある意味、我々が「混沌」と呼ぶエネルギーです。私は宇宙の負のエネルギーと表現しています。
この混沌の中に、我々が今地上で愛だと思っているものが閃いた姿です。それをこの赤とか、ちょっとカラフルな絵の具で示していると思うのです。
―― 暗黒流体の中に、ですね。
執行 そう、暗黒流体の中で赤が生きている。キリストが人間として生きていたときの生命が昇天することによって、冷たく真っ暗な暗黒の宇宙に一瞬だけ、すぐ元に戻るけれど、戻る前のキリストの命が繁栄したときの愛を描いている。キリストが地上で示した愛が、宇宙中で一瞬、火花を散らした。そういう瞬間を描いているのではないか。
―― なるほど。
執行 暗黒流体の中に輝く愛のエネルギーを感じ...