●「門」――愛の次に描いたのは義のほうに傾いた愛
執行 次です。
これはまた真っ黒で、近づかないと、このすごさはちょっと分からない。近づいただけで宇宙を感じます。
先生が付けられた題は「門」です。ゲート。これを見た瞬間、生命を表す一つの輪を感じました。先ほどの「愛」の次に、一番厳しい「義」を置いたのだと思いました。「門」という絵と題名を見せられて、私が直感で思い浮かべた文学はアンドレ・ジイドの『狭き門』です。あの有名な、アリサとジェロームの純愛をうたった純愛の文学です。
ジェロームとの純愛をアリサが諦めて、神に仕えるため修道院に入ろうと思うときの台詞があります。「我々人間は幸福になるために生まれたのではない」。アンドレ・ジイドがこれを主人公のアリサに吐かせた。私はこの言葉に出会ったときに、人間存在の根底に触れるものがあり、記憶に残りました。それが表されていると思ったのです。
―― なるほど。
執行 それを愛の絵の次に、八反田先生は持っていったのです。愛よりもっと深い、義のほうに傾いた愛が、人間的な愛の次に置かれている。これが先ほど神蔵さんが一番心配していると言ったバランスです。
先生も多分、バランスをとっている。私はそれを感じます。愛の次に、生命が本当に向かわなければいけないものは何か。我々は地上で生きている限り、幸福という概念によって、あらゆる人間に課された神的な使命を捨てています。
神的な使命を人間が捨てることを「自我」と言いますが、要は自分が幸福になりたい。それをアリサの場合、純愛で結婚目前まで来て全部捨ててしまう。そのときの台詞が、今言った言葉です。
―― すごいですね。
執行 そのすごい文学が、この絵に当てはまる。愛の深い真実です。愛の深い真実とはパウロが「ロマ書」で語った義の世界です。暗黒に浮かぶ生命の悲哀です。
―― 悲哀。
執行 旧約聖書の『詩篇』に書かれています。涙の谷から人間は出てきた、と。この涙の谷から生まれてきた人間存在の大もとを私はこの絵に感じます。これを先生は『ベラスケスのキリスト』から感じ取ったということです。
●「私は私である」を否定する
執行 こちら(「愛だけが……」)は肉体です。肉体がもたらしたものが次に、魂のために暗黒流体の一番厳しいものの中に沈み込んで遠くに浮かんでいる。見ただけで寂しさ、冷たさの中に、生命の本質を見ていることがわかります。肉体をつんざいて魂に到達する「行」です。だからこれをパッと見ただけで、私は白隠が描いた禅画に見えます。
―― なるほど。
執行 白隠が墨でいろいろ描いて、その中に円相と言われる丸を一筆で描いた。それと同じです。そこに先生は『ベラスケスのキリスト』の中から到達した。私もこの中に埴谷雄高が『死霊』で描いたアンドロメダの世界が見えます。
―― なるほど。
執行 「精霊に向かって行け」と。川崎にある私の会社の工場に座右銘を掲げていますが、これは(フランスの詩人)アルチュール・ランボーの言葉です。
―― ランボーですか、面白いな。
執行 「Nous allonns à l'Esprit」というフランス語で、「我々は精霊に向かっていくのだ」。我々とは、人生です。『地獄の季節』の中の言葉で、私はランボーのこの言葉が好きで自社工場の玄関にフランス語で貼り出したのです。
―― それはすごいですね。
執行 「Nous allonns à l'Esprit」(我々は精霊に向かっていくのだ)。これをこの絵に感じるのです。
―― なるほど、ランボーの言葉。
執行 これも我が社のキャッチフレーズに感じてしまう。「勝手に感じるな」と言われたら終わりですが、それを私は感じるのです。精霊にも見えるのです。
―― なるほど、禅画にも見えるし。
執行 アンドロメダにも見えるし、いろいろなものに見える。それを先生はベラスケスの中からやった。
―― なるほど。
執行 この冷たさ、暗さの中から感じられるのが先ほどの説明で言った、イコンを楽しむために分からなければいけない「私は私である」の否定です。この否定が、この絵の中には入っている。「私は私である」ということを否定している絵画だと思います。
―― はい。
執行 これは「我々は死んでいるから生きている」ということです。昔の禅僧がよく言っています。「死にながら生きる」と(臨済宗の僧)至道無難も言っています。書いたものもあります。
―― なるほど。死にながら生きると。
執行 私なりに解釈すると、座禅はこの世で死ぬためにやっているのです。意味など分かっていない。今は「健康のために座禅する」などと言っている人もいますが、とんでもない話です。もともと、なぜわざわざ座ったきりかというと、楽しくて座っているのではない。この世の中で形だけでもいいから...