●「洗礼」は逆遠近法的に見たイコンの十字架
執行 今度はこちらです。先生が付けられた題名は「洗礼」です。これは特にわかりやすくて、逆遠近法的に見た十字架です。
―― なるほど。逆遠近法で見ると、こういうふうに見えるのですね。
執行 十字架は、一つだけではありません。こちらにもあるし、こちらにもある。見えてくると、わりと幼稚な感じに見えます。つまりはイコンなのです。イコンの十字架。
―― そうですか。イコンと言われるとわかりますね。
執行 そして先生が付けられた題は「洗礼」。先ほど少し説明しましたが、イコンとして見た場合、我々がこの絵を見ているのではなく、この絵が我々を見ている。その見方がわかってくると、これが剣に見えてくるのです。我々に向かって剣が振り下ろされる。
―― なるほど。剣が向かってくると。
執行 キリストの言葉にもあります。「ルカ伝」の12章49節以下に「私は火を投ずるためにこの世に来た」と。それを剣で表して火を……。
―― 火を投ずるのを剣で表しているわけですね。
執行 そう。要するに厳しい。先ほどの言葉で言うと「義」です。義を貫くためにこの世に来た。それが、この絵から我々に向かって放射されているエネルギーなのです。
この絵をよく見たときに、私は中世ヨーロッパの神殿騎士団とも呼ばれた、テンプル騎士団のマークを思い出しました。
テンプル騎士団ができたとき、聖ベルナールという偉大な聖人がいたのですが、『騎士道典範』という騎士道に生きる騎士の心構えを書きました。そこにこの言葉が出てくるのです。
―― なるほど、聖ベルナール。
執行 どうして「洗礼」という題を付けたか。『ベラスケスのキリスト』から受けた印象として、キリストの一番強い義を携えて生きることが、人間の生きる道だと示したのではないか。それが西欧文明で言うと、騎士道なのです。
日本文明で言えば、武士道。武士道が好きだから、私はそこがわかるのです。
前の黒い絵(『門』)でも言いましたが、私はこの絵からも一つの阿頼耶識(あらやしき)、宇宙の生命の流れを感じます。これが3体あるのも、宇宙的バランス感覚です。本当は1体だけでいいのに3体あるということは、宇宙的バランス感覚ではないかと思います。
理屈を言えば、いくらでも言えます。洗礼の意味も、この世の人に問うているように思います。洗礼の意味は『ベラスケスのキリスト』の中でも問われていて、これを八反田先生も問うています。洗礼とは命を投げ出して生きることだと、この絵そのものが我々にメッセージを送っているのです。
―― なるほど。命を投げ出して生きると。
執行 我々は、そのような武士道や騎士道が持っていた厳しさを失っています。
―― そうですね。全く否定されていますね。
執行 だから、「死ぬために生きるのが我々」というのは、実は禅的とか武士道的だけでなく、西洋論理学的に言っても正・反・合なのです。つまり弁証法です。弁証法的なものでないと、人生はダメなのです。人生は、一つの価値観だけだと必ず腐ります。
先ほど言ったように東洋文明だけでもダメ、西洋文明だけでもダメ。反対するものが二つ合わさり、どこかで折り合いをつけたときに弁証法的人生が生まれる。それが人生です。だから、苦悩しなければダメです。一生苦悩する。「死ぬ日まで苦悩しろ」と言っている絵なのです。
―― なるほど。
執行 だから「洗礼」と付けた。すごいでしょう。私も驚いています。イコンとして見なければダメとわからないと、これがわからない。
―― そうでしょうね。
●「聖なる丘」…本当の美は宇宙の悲しみの中に漂っている
執行 これが最後になります。先生が描かれた13点目で、『ベラスケスのキリスト』の詩から受けた印象の最後を飾る絵です。これを見て直感的に思うのは、まず先生が付けられた題名です。「聖なる丘へ」。
―― 聖なる丘。
執行 聖なる丘は、地上的に言えば(キリストが磔にされた)ゴルゴタの丘です。ゴルゴタの丘がどういう丘かというと、ゴルゴタはヘブライ語で「どくろ」のことです。どくろがゴロゴロ転がっている丘だから、ゴルゴタの丘。
それを「聖なる丘へ」と。私はこの中にもちろん、どくろも感じます。どくろが入っているのが見えてくる。我々は地上ではゴルゴタの丘を見ますが、ゴルゴタの丘は日本で言えば処刑場ですから、どくろがゴロゴロ転がっている。キリストが処刑された場所を最後にして、「聖なる丘へ」と題名を付けた。『ベラスケスのキリスト』が人間の命の本源を語っていると八反田氏が捉え、最後を飾る絵として描かれたのではないか。
―― なるほど。
執行 これは簡単に言うと、我々の生命のイコン化です。我々の生命は、地球上では骨と肉ですが、宇宙的に言...