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ボリシェヴィキを彷彿とさせる長州藩の妥協なき理想追求

幕末長州~松下村塾と革命の志士たち(10)攘夷のリアリズムと実行

山内昌之
東京大学名誉教授/歴史学者/武蔵野大学国際総合研究所客員教授
情報・テキスト
ボリシェヴィキ
水戸藩や薩摩藩との違いを通して浮かび上がる長州藩の横顔は、ロシア革命を動かしたボリシェヴィキを彷彿させる、と歴史学者・山内昌之氏は言う。その理由はどこにあるのか。また、幕末の京都で、過激浪士たちはおろか市民にも一目置かれた長州は、なぜ人気を集めたのか。(シリーズ講話第10話目)
時間:09:12
収録日:2014/12/24
追加日:2015/03/08
タグ:
≪全文≫

●孝明天皇の「攘夷」の勅命と、幕府による「攘夷決行」の公約


 皆さん、こんにちは。

 長州藩の過激な尊王攘夷論の台頭と、それに基づく京都市中における、現在で言うところの「テロ」や暗殺の横行に対して、幕府は大変苦慮します。治安の維持は、もとより政府の責任だからです。

 しかも、京都における長州藩の過激派は、朝廷に対してもいわゆる「入説」を行い、孝明天皇などを動かそうとしました。こういった朝廷筋からの圧力によって、幕府は「いつ攘夷をするのか」と迫られます。そんなことは無理だと知りながら、天皇の意思を持ち出されるため、幕府はたまらず文久3(1863)年の3月になった時点で、「攘夷決行は5月10日」と、日付まで告げてしまいます。その結果、幕府は孝明天皇に「攘夷決行」を奏上し、公約することになりました。当然ながら、各藩にも通達が行われます。


●単独の攘夷決行が、幕末の長州藩を際立たせる地位に置いた


 そして、5月10日がやってきます。他の藩はそうしたことは無理だと知っていますから何もしませんが、唯一長州藩だけが、実際の「措置」を取ります。下関(馬関)海峡、現在の関門海峡を通過していくアメリカの商船、フランスの通報艦、オランダの軍艦に対して、次から次へと砲撃を仕掛けていったのです。

 翌月、4カ国による報復の戦が起こります。英、仏、蘭、米による4カ国艦隊が長州藩を攻撃することになったのです。最新式の大砲で艤装(武装)された欧米の近代的な海軍に砲台を攻撃されては、かなう術もありません。フランス軍艦に襲撃され、下関の「前田砲台」を占領されます。

 しかしながら、これを通して長州藩は、藩論である攘夷を実際に決行した点で、京都の商人たちを含めた人々から高く評価され、「嘘を言わない」と人気を集めるのです。この「攘夷決行」こそが、幕末の長州藩を際立たせ他藩とは異なる地位に置いたのです。


●水戸藩と長州藩の違いは「知行合一」への妥協の有無


 桜田門外の変を見ると、水戸の浪士たちが井伊直弼を暗殺して首を取ったことから、水戸藩はさも過激である印象を与えます。しかし、実のところは、最も早くから「攘夷」を唱えながらも、水戸藩主の徳川斉昭が「御三家」の一員であったことから、言葉と行動は伴いませんでした。常陸の海岸に砲台を造りましたが、攘夷を決行したかと言うと、具体的行動は全く取っていません。

 しかし長州藩は、「攘夷を唱えた以上はそれを実行しなくてはいけない」と考えます。まさに「知識と行動は一体でなければならない」とする「知行合一」の考え方に近いものです。そして、吉田松陰が唱えたように、「自分たちが得た知識や世界観は、そのまま政治として実行しなければいけない」という考え方を、直ちに実行したのです。

 そのプロセスの中で一切の妥協はあり得ないという点で、幕末の長州藩のリーダーやエリートたちを見ていると、ロシアの十月革命を決行したロシア共産党(ボリシェヴィキ)において一切の妥協を許さなかったレーニンからトロツキーやスターリンに至っていく流れを思わせるものがあるのです。


●温厚な藩主すら苦言を呈した、藩内の凄惨な権力闘争


 その中で、「航海遠略策」を唱えた開国論者の長井雅楽、あるいは、攘夷決行論者であり討幕派の最大のリーダーであった周布政之助といった立場の違う人々が、藩論の目まぐるしい展開により、時間軸に沿って自決に追い込まれていくという凄惨な藩内闘争が行われたのも事実です。

 藩内における凄惨な権力闘争は、長州藩の特徴でもあります。当時の藩主、毛利大膳大夫敬親は、「そうせい候」とあだ名が付いたほどの人でした。家臣が何か伺いを立てると「そうせい」。また別の者が伺いを立てると「そうせい」。生涯彼は「そうせい」と言ったので、「そうせい候」と言われたのです。

 ところが、この「そうせい候」敬親をもってしても、凄惨な藩内闘争に対しては、一つの厳しい考えがありました。

 ある時、藩内の「俗論党」と呼ばれる親幕派が、尊王攘夷の倒幕派に対してテロを仕掛け、流血の粛清を行います。その頭領であった椋梨藤太 (むくなしとうた)に対して、毛利敬親は「椋梨、血を流してはならぬぞ」と語ったと言います。

 これが生涯に一度だけ、毛利敬親が自分の意思を伝えた瞬間だったと言われますが、「そうせい候」敬親の目から見ても厭われるほど、流血の惨事を通した権力闘争が繰り返されたのです。藩主自身がテロや流血を嫌うと意思を示さなければならないほど、「血の粛清」を伴って政治のリアリズムが行われていった点が、長州藩の特徴と言えます。


●薩摩藩と長州藩の違い、そして開国論へ展開させた松陰の弟子の台頭


 この点、薩摩藩とは、大きく違います。同様のリアリズムを持ちながらも...
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