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大東亜戦争の折の若い人々が、なぜあそこまでのガッツを発揮できたのか。
本章の冒頭で、アメリカ人にガッツがあったのは、「黄色い人間たちが生意気にも卑怯な手段で攻めてきた」ことに「負けてたまるか」と敵愾心を燃やしたからではないか、と述べた。一方、当時の日本人が抱いていた「負けてたまるか」の根底にあったものこそ、本章で見てきた「人種差別への憤り」であっただろう。
白人に虐げられている有色人種を解放しようという理念は、当時の日本人にとって間違いなく、自らの誇りにかけて戦うべき正義であった。しかもそれは、幕末維新以来の「尊王攘夷」の気風とも、一直線につながるものであった。言葉を換えれば、それが「大東亜共栄圏」というものへの強烈な思いにつながっていったのである。
真珠湾攻撃で対英米戦争が始まったと聞いたとき、私は小学校五年生の頃だったが、すーっと胸のつかえが取れたような感じがした。かつて、東洋史家の岡田英弘氏と対談した折に話がこのことに及び、私が開戦時のそのような感慨について話すと、岡田氏も「まったく長い間、胸につかえていたのが取れたようないい気分でしたなぁ」とおっしゃっておられた。岡田氏も開戦の折には小学校五年生くらいであった。
このような気分は当時の少年だけのものではない。対英米開戦を聞いて、白樺派の作家の長与善郎は、「生きているうちにまだこんな嬉しい、こんな痛快な、こんなめでたい日に遭えるとは思わなかった。この数カ月と言わず、この1、2年と言わず、我らの頭上に暗雲のごとく蔽いかぶさっていた重苦しい憂鬱は、12月8日の大詔渙発とともに雲散霧消した」と書いた。斎藤茂吉は「何なれや心おごれる老大の耄碌国を撃ちてしやまん」という歌を詠んでいる。小林秀雄も「それみた事か、とわれとわが心に言ひきかす様な想ひであつた。何時にない清々しい気持で上京、文藝春秋社で、宣戦の御詔勅捧読の放送を拝聴した。僕等は皆頭を垂れ、直立してゐた。眼頭は熱し、心は静かであつた。畏多い事ながら、僕は拝聴してゐて、比類のない美しさを感じた」と記している。岩波書店の創業者である岩波茂雄も、シナ事変には反対であったが、日米開戦は歓迎している。
誤解されては困るが、このような爽快感は、けっして緒戦の日本軍の赫々たる戦果に対してのみ表明されたものではないのである。これまで述べてきた、人間としての尊厳を傷つけられるような人種差別に対する憤りがあればこそ、それに対して敢然と立ち上がったことへの熱い思いがこみ上げたのだ。
さらにいえば、この爽快感の裏には、シナ事変での英米のあからさまな利敵行為、ABCD包囲網といわれた経済封鎖などに対する憤りもあった。前の章で見たように、シナ事変は日本のせいで起こったとはいえない戦争である。にもかかわらず、これに対して英米は戦争を仕掛けてきているといいうるほどの圧迫を加えてきた。そのことに対する憤りは、多くの日本人が共有するものであった。
大東亜戦争をあれだけ勇敢に戦った若者たちの胸にも、そのような思いがあったはずである。彼らは何も、国家主義や天皇主義に狂信的になって死地に赴いたのではないし、彼らの愛国心は、けっして偏狭なものではない。これまで人種差別を振り回し、アジアを支配してきた西洋諸国に抗議の声を上げ、そのような世界秩序を打破しようと立ち上がった日本という国に身を捧げようとしたのである。
もちろんあの戦争の折に、アジア各地で日本がしたことが理想的なことばかりではなかったことは事実であろう。だが、自らの生命と引き換えに、新しい歴史を切り開こうとした若者たちの思いを蔑ろにするようなことがあってはなるまい。


