≪全文≫
この大東亜共同宣言に掲げられた「万邦共栄の楽を偕にする」「大東亜の安定」という言葉は、米英開戦時に渙発された「米国及英国ニ対スル宣戦ノ詔書」でも使われている言葉である。
〈抑々東亜ノ安定ヲ確保シ、以テ世界ノ平和ニ寄与スルハ、丕顕ナル皇祖考丕承ナル皇考ノ作述セル遠猷ニシテ、朕カ拳々措カサル所。而シテ列国トノ交誼ヲ篤クシ、万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ、之亦帝国カ常ニ国交ノ要義ト為ス所ナリ〉
この文章にも関連することであるが、開戦当時の首相であった東條英機が、東京裁判での宣誓供述書で次のように述べている。長文になるが、本章で見てきた日本人の思いがよく伝わるものであるので抜粋引用したい。
〈東條内閣が大東亜政策を以て開戦後之を戦争目的となした理由につき簡単に説明いたします。従前の日本政府は東亜に於ける此の動向に鑑み又過去に於ける経験にも照らして、早期に於て東亜に関係を有する列国の理解に依り之を調整するのでなければ永久に東亜に禍根を為すものであることを憂慮致しました。そこで一九一九年(大正八年)一月より開催せられた第一次世界大戦後の講和会議に於ては我国より国際連盟規約中に人種平等主義を挿入することの提案を為したのであります。しかし、此の提案は、あえなくも列強に依り葬り去られまして、その目的を達しませんでした。依って東亜民族は大いなる失望を感じました。一九二二年(大正十一年)の「ワシントン」会議に於ては何等此の根本問題に触るることなく寧ろ東亜の植民地状態、半植民地状態は九ケ国条約に依り再確認を与えられた結果となり東亜の解放を希う東亜民族の希望とは益々背馳するに至ったのであります。次で一九二四年(大正十三年)五月米国に於て排日移民条項を含む法律案が両院を通過し、大統領の署名を得て同年七月一日から有効となりました。これより先、既に一九〇一年(明治三十四年)には濠州政府は黄色人種の移住禁止の政策をとったのであります。斯の如く東亜民族の熱望には一顧も与えられず常に益々之と反対の世界政策が着々として実施せられました。そこで時代に覚醒しつつある東亜民族は焦慮の気分をもってその成行を憂慮いたしました。その立場上東亜の安定に特に重大なる関係を有する日本政府としては此の傾向を憂慮しました。歴代内閣が大東亜政策を提唱致しましたことは此の憂慮より発したのであって、東條内閣はこれを承継して戦争の発生と共に之を以て戦争目的の一としたのであります〉
そして、東條は大東亜会議で謳われた政策方針を説明しつつ、こう供述する。
〈斯の如き政策が世界制覇とか他国の侵略を企図し又は意味するものと解釈せらるるという事は夢想だもせざりし所であります〉
人種差別をし、アジア侵略をしてきたのは英米などではないか。日本はそれに立ち向かうという意義を掲げて戦ったにもかかわらず、相手から「世界制覇を目指していた」「侵略国だった」などと断罪される──そのことに対する静かな怒りが、この言葉から伝わってくる。
結果として、日本は敗戦を迎えることになる。だが、最後まで誇りは失われなかった。昭和20年(1945)8月15日に発せられ、玉音放送のかたちで昭和天皇がお読みになった「終戦の詔勅」の中にも、「万邦共栄の楽を偕にする」という言葉が、そのまま使われている。
〈抑々帝国臣民ノ康寧ヲ図リ、万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ、皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所〉
そして、詔書の後半では、非命に斃れた日本国民に対する思いが語られ、そして有名な「然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所、堪ヘ難キヲ堪ヘ、忍ヒ難キヲ忍ヒ、以テ萬世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」に続いてゆくが、実はそれらの言葉の前に、大東亜戦争をともに戦ってくれたアジアの友邦への、心からのお詫び、謝意が置かれているのである。
〈朕ハ、帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ、遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス〉
大東亜戦争が終了したあとも、インドネシアやベトナムなどで数多の日本軍将兵が残留し、現地の独立闘争を支援して旧宗主国との戦いに身を投じた。戦死した者も多い。戦争が終わったのに、なぜ彼らは残ったのか。そして、なぜ戦ったのか。
その事実からも、当時の日本人の燃えるような思いが伝わってくる。
この章で述べたことは、日本の勝手な言い分だと見做されてきた。東京裁判はこの日本の言い分を抹殺した。しかしその裁判の終結から2年経つか経たないうちに、東京裁判そのものであったマッカーサー元帥は、アメリカ上院の軍事外交合同委員会において、「日本人の戦争の目的は主として自衛のためであった」と証言したのである。
近年、私は幾度となくこの証言について言及してきた。なぜ、この証言を何度でも繰り返す必要があるのか。そしてわれわれは日本人と...


