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その点でいうと、「国のかたち」を悪いほうに左右してしまった一人として挙げられるのが、本書で何度も取り上げてきた幣原喜重郎であろう。
幣原は豪農の家に生まれ、東京帝大をいい成績で卒業し、三菱財閥三代目総帥の岩崎久弥の妹と結婚している。人の悪いところを疑わない、素直な人物に育ったのではないかという気がする。素直に育つことは悪いことではない。だが、素直に育つことの怖さもある。そのことを、もしかすると現代の日本人は理解できないのではないだろうか。
明治維新の元勲たちは、下級武士からのし上がってきて、いつ斬り殺されてもおかしくない状況で生きてきたから、どこかに煮ても焼いても食えない部分があった。たとえば日清戦争までの日本外交を手がけた陸奥宗光は、西南戦争で西郷隆盛の挙兵に呼応して政府転覆を謀った立志社事件に関与して捕まり、投獄された。下手をしたら文字通りクビが飛んだ人物だったが、有能だったから外交官として復活し、日清講和条約の調印を成功させた。
ところが、日露戦争後のポーツマス講和会議の全権を務めた小村寿太郎の世代は、もはや維新の白刃の下をくぐっていない。彼は大変な秀才で、現在の東大法学部にあたる開成学校(大学南校より改組)の法学部で学んだあと、ハーバード大学で法律学を専攻し出世している。
もちろん、ポーツマス講和会議での小村寿太郎の貢献はきわめて大きなものであった。だが、その一方で小村寿太郎は、自分が講和会議で不在中に仮締結された南満洲鉄道経営に関する桂・ハリマン協定(明治38年〈1905〉)に反対し、協定を解消させている。
アメリカの鉄道王とも呼ばれるエドワード・ハリマンは、日露戦争の折に、有名なジェイコブ・シフなどと並んで日本が発行した戦時公債に巨費を投じて日本を助けた人物であるが、日露戦争後、南満洲鉄道の共同経営を日本側に申し入れてきたのであった。資金不足の日本からすれば、これはけっして悪い話ではなく、伊藤博文、井上馨、渋沢栄一、それに桂首相といった維新の元勲や財界人たちはみな賛成したが、ポーツマス条約締結から帰ってきた小村寿太郎は、「そんなのはけしからん、自分に相談もなしに何だ」と言い出したのだ。小村の言い分は「満洲の権益は日本軍が血を流して得たものだ。それをアメリカと一緒にやる必要はない」ということで、誰も当時反対できない議論だっ...
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概要・テキスト
小村寿太郎
近代日本人の肖像
アメリカの鉄道王エドワード・ハリマンは、日露戦争後、南満洲鉄道の共同経営を日本側に申し入れ、桂首相と仮協定を結んだ。だが、小村寿太郎はこれに反対し、協定を解消させている。あのとき南満洲鉄道を共同経営していたら、その後の歴史は大きく変わっていただろう。上智大学名誉教授・渡部昇一氏によるシリーズ「本当のことがわかる昭和史」第六章・第6回。
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