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自らの誇りをかけて「負けてたまるか」と強烈に思うことは、とてつもなく強い「ガッツ」をもたらすものである。
第二次大戦当時のアメリカの軍人に非常なガッツがあった理由をちょっと考えてみると、そういう人情の機微ともいうべきものに突き当たるような気がする。
あとでも書くが、日本の外務省の出先である大使館員の怠慢のおかげで、一般のアメリカ人たちは、日本が卑劣な真珠湾攻撃を仕掛けてきたと考えていた。しかも、当時のアメリカは強烈な人種差別の国だった。いまのように人種差別が悪いことだといわれるようになったのは、戦後しばらく経ってから公民権運動が燃え盛って以降の話であり、当時のアメリカ社会では白人意識こそ善であり美徳の元だった。
そのためアメリカ人たちは「黄色い人間たちが生意気にも卑怯な手段で攻めてきた」「負けてたまるか」と敵愾心を燃やし、強烈なガッツを抱いたのではないか。もともとアメリカは第二次世界大戦への参戦をめぐって世論では反対が多く、ルーズベルトは大統領選挙の折には「参戦せず」を公約とするほどだった。それほど割れていた国内が、これを機に「断固戦う」と一つにまとまったのだ。
あの頃のアメリカの小説を見ても、真珠湾攻撃(昭和16年〈1941〉)のあと、「軍隊に志願しないようなやつは男じゃない」という雰囲気があったことが読み取れる。一番わかりやすい例の一つが、映画にもなった『ゴッドファーザー』で、マフィア・コルレオーネ家の三男が真珠湾攻撃をきっかけに大学を中退し、軍隊を志願していることだろう。
実際、アメリカでは真珠湾攻撃後に多数の志願者が集まり、断るのに苦労したほどであった。
アメリカには、カウボーイの英雄思想やインディアンと戦った英雄の話が語り継がれたカルチャーが背景にある。ある意味で敵愾心に燃えた彼らは、日本人をインディアン扱いにするような気分だったのではなかろうか。
いざ戦うとなれば、強烈なガッツと敢闘精神を示す気風が西洋にはある。
これはアメリカとは少し違う話だが、私が若い頃にドイツで見た決闘の話を紹介したい。私がドイツに留学したのは昭和30年(1955)から33年(1958)までだが、ドイツでは当時でも決闘が行なわれていたのである。
決闘とはいっても、相手が憎いから殺すなどということではなく、儀式としてルールに則って行なうもので、剣道などの武道と同じといえば、同じである。
その決闘を一度見せてもらったことがあるのだが、「血が飛ぶから粗末な服を着てこいよ」といわれた。決闘では実際に両者が剣を交えて戦い、斬られて傷を負うのだが、「あの顔の刀傷がいい」という女性も、ドイツでは数多くいたのである。
いまでは決闘は禁止されたようだが、名宰相ビスマルクが決闘好きだったことは有名である。彼は決闘で多くの刀傷を負っている。かつてドイツには決闘団体があった。会員たちの団結心が強く、そこに入るとよく出世ができたという。
十九世紀のイギリスにもこんな話がある。貴族の子弟が通う名門イートン校で、生徒が喧嘩をして殴り殺されたのだが、校長先生がご両親に向かって「誠に残念でした。もう少し強く育てるべきでした」と話したという。これは嘘か本当かわからないが、イートン校はそれほど荒っぽい学風だった。ワーテルローの戦い(1815年)でナポレオンを破ったウェリントン公が、「ワーテルローの戦いはイートンの運動場において勝ち取られた」という有名な言葉を残しているが、やはりそういう雰囲気があったのだ。
戦前の日本では、「アメリカ人は女の尻ばかり追い回している弱虫だ」などという罵詈雑言もあった。だが、それは日本人の大いなる勘違いだといってよい。
たしかに西洋では、男たちが少なくとも十五、六歳からダンスパーティなどに出て、そこで女性たちをエスコートする習慣がある。アメリカでは、いまでもその風潮が盛んなようだ。だが、そこで女性たちに「いくじなし」とでもいわれたら、男として落第だという烙印を押されたも同様だったのである。そうならぬための「男らしさ」は、当時の男たちにとって死活問題だった。
少し趣が異なるが、日本でも昔は、「男たちの評価は女性たちがする」という雰囲気があった。将校でも会社員でも一定のクラスになると、料亭での芸者の評判が悪いような人は出世が難しかったのである。芸者に軽んじられるようでは駄目だというのが、日本の普通の組織における男の教育の一部だった。それは日本では常識のようなものであったが、アメリカと表現方法や発露形態が違うので、日本人は「アメリカ人は弱虫」などと誤解することになったのだろう。


